第5話 改革の第一歩①
公爵家の広大な館。その中央部に位置する大きな会議室は、天井から吊るされた豪奢なシャンデリアがまず目を引く。壁面には家名を象徴する紋章が彫られ、家具は重厚な木材を基調とした作りで、歴代の当主が取り仕切ってきた権威を存分に示している。
その朝、まだ日差しがやわらかな時間帯に、パルメリア・コレットが落ち着いた足取りで会議室へ姿を現した。周囲の侍女や家令が控えめに見送るなか、彼女はスカートの裾をすっとさばき、扉をくぐる。視線の先には、すでに整然と並んだ席に腰掛けている父公爵や家臣の重鎮たち、財務や農政を担当する役職の者たちが勢ぞろいしていた。
(……ここで怖じ気づくわけにはいかない。私が今ここで声を上げなければ、何も変わらないまま破滅が待っているのだから)
パルメリアは胸中で自分に言い聞かせながら、深呼吸をする。近頃、令嬢が「領地改革」を提案するなど前例がない行動だったため、保守派の家臣たちにとっては、戸惑いや疑念を抱かずにはいられない話でもあろう。実際、会議室には奇妙な緊迫感が漂っていた。
端から見れば、若い公爵令嬢が政治や経済を語るなど信じがたいはずだ。しかし、パルメリアはあくまで堂々とした姿勢を崩さず、会議用の長テーブルへ歩み寄る。そして、軽く膝を曲げるように礼をしてから、卓上に広げられた地図と書類を手に取った。
正面にいる公爵は、硬い表情で娘を見据える。目の奥には、娘の急激な変化への疑問と期待が入り混じっているかのようだ。長年仕えている重鎮の家臣たちも、どこか落ち着かない様子で視線を交わしていた。
「さて……『領地改革』について意見を述べると聞いたが、パルメリア。本当にお前が考えた案なのか?」
公爵が口を開くと、その声に含まれる低い響きが会議室の空気をさらに重くするようだった。パルメリアはその重圧を感じながらも、顔を上げてきっぱりと答える。
「はい、父上。先日の視察で、領地の農業が深刻な状況に陥っていると痛感いたしました。私はそれを放置するわけにはいかないと思い、可能な限りの策を検討したのです。……どうか耳を傾けてください」
その短い言葉にも、いつもの「華やかで気まぐれな令嬢」らしさは感じられない。むしろ、彼女の瞳には強い決意が宿っているようにさえ見える。公爵はため息まじりに小さくうなずくと、周囲の家臣たちに視線を向ける。ここで異論や反論があれば出してもらおうという合図だった。
パルメリアはそれを機に、広げられた地図の上に指をやる。畑や主要な村落の位置、地勢などを示した図には、彼女が赤ペンで書き込んだメモもちらほら見られ、家臣たちはそれを見て顔をしかめたり首を傾げたりしている。
「まずは現在の問題点を整理しました。農作物の収穫量が減少しているだけでなく、道や排水路の整備が追いつかず、天候不順のときなどは畑が浸水して作物が枯れてしまう。このままでは収益も激減し、村人たちが飢える危険性が高まるでしょう」
落ち着いた声で語り始めるパルメリアに、重鎮の一人が口を挟む。
「お嬢様。確かにそのような報告は我々も受けております。しかし、だからといって、突然大規模なインフラ整備を行うだけの資金がどこにあるのです? 財政が逼迫している現状、ご存じでしょう」
その発言に会議室のあちこちから同意のうなずきが漏れた。パルメリアはかすかに目を伏せる。財政問題が最大のネックになることは承知していた。
(ここで引き下がったら何も変わらない。私が成すべきは、ただ資金を投じるだけの単純な策じゃないの)
彼女は意を決したように顔を上げると、近くに置いてあった分厚い書類の束を取り出した。それは彼女自身が前世の知識を活かし、領地の情報を整理したメモを家臣らと協力してまとめた「提案書」だった。
「資金がないのであれば、まず出費を最小限に抑えつつ、農業の改善効果を見極める必要があります。そこで輪作の導入を試みたいんです。地力を回復させるために作物を交代させる方法を一部の区画で実験し、収穫量が増加したら徐々に広げていく。また、排水路についても、全域をいきなり直すのではなく、一部の地域から重点的に改修していくつもりです」
輪作という言葉に、家臣たちはざわついた。聞き慣れない農法の名称もさることながら、貴族令嬢が具体的な耕作法を提案するとは誰も想定していなかったのだ。年配の家臣が目を丸くする。
「輪作……ですか。確かに畑を傷めず収穫の安定を図る施策という話は聞いたことがありますが、本当にそんなにうまくいくのでしょうか」
パルメリアはうなずき、冷静に説明を続ける。
「成功例はほかの地方にもあると聞きます。作物の種類を交代させて土の栄養を守り、害虫の繁殖を抑える効果も期待できます。もちろん、混乱を避けるために一部の地区で試験的に導入しますので、最初から領内全体に指示するわけではありません。成果と問題点を検証しながら、段階的に広げていくのです」
丁寧で筋の通った口調に、保守的な家臣たちのなかにも耳を傾ける者が出始めた。しかし、別の家臣が今度は財務面での懸念を示す。
「ですが、お嬢様。輪作で収量が増えたとしても、すぐに領の収益が改善するわけではないでしょう。流通や税の仕組みを見直す必要も出てきます。そこまで大掛かりな改革を、我々は今すぐ実行できるのですか?」
部屋の空気が再び張り詰める。パルメリアはうなずきながら、地図の端にメモされた数字に視線を落とし、言葉を続けた。
「流通や税制を根本的に改めるのは容易ではありません。だからこそ、私たちは可能な限り段階を踏むのです。たとえば、収穫した作物を一時的に保管し、余剰分を商人へ売り渡すルートを整備する。その際、徴税の仕組みをもう少し透明化し、中間での不正を抑える。そうすることで農民への負担を和らげつつ、結果的には領全体の収益を上げることができるはず」
「中間での不正、ですか……?」
小さくつぶやいたのは、ひとりの若い財務担当官だ。貴族社会では、徴税請負人などの仲介業者が多くの利益を巻き上げる例が少なくない。しかし、これを過度に指摘すれば利権に絡む家臣や商人からの強い反発を招く可能性もある。部屋の隅にいる数名が、明らかに居心地の悪そうに身じろぎした。
(やっぱり反対や不安は尽きないわね。でも、私がここで言い切らなければ、どうにもならない)
パルメリアは静かに息を吸い込むと、視線を部屋の全員へ向ける。そして、語気を強めた。
「今のまま何もしなければ、領地は確実に衰退していきます。農民が搾取され続ければ、収穫量がさらに落ちこみ、税収も減り、誰も得をしません。――だから、従来のやり方に固執せず、新しい方法を取り入れてほしいんです。最初は部分的にでも、やる価値はあると確信しています」
その言葉に、会議室はしんと静まり返った。全員が戸惑いながらも、説得力のある提案だと感じているようだ。ただ、意地になって反発する者もいるのか、ちらほら小さな咳払いやささやきが聞こえる。
「……お嬢様が、ここまで強く主張されるとはな。これは、公爵様にとっても判断が難しい問題だ」
重々しい声でそうつぶやいたのは、パルメリアの父に仕えて長い家令だった。彼は公爵の顔色をうかがうように視線を向けるが、公爵は居住まいを正し、パルメリアをじっと見据えたまま動かない。