第4話 再会の夕日②
ふと、後ろに控えていた侍女が「お嬢様、そろそろ馬車にお戻りいただかないと……」とそっと声をかけた。夕暮れが迫っているからか、風が急に冷たく感じる。パルメリアは顎を引いてうなずき、顔を上げると、レイナーが静かに言葉を継いだ。
「今日のところは、もう行くんだね。……明日はどこへ向かうんだい?」
「特に決めていないわ。けれど、当分は領内の状況を見て回るつもり。この土地を放っておいたら、いずれ取り返しのつかないことになるかもしれないもの」
レイナーは微笑し、その瞳に一瞬だけ憂いを宿す。夕日の光が、二人の姿をオレンジから赤へと染め上げながら、山並みの向こうへ落ちようとしている。
「君ならきっと、何か方法を見つけられる。……遠くからだけど、応援してるよ。かつて庭で花を摘んだ日々を、僕は忘れてない。あの日の君が、目の前にいるって思うと……やっぱり僕は嬉しいんだ」
その言葉に、パルメリアは一瞬だけ胸が詰まるような思いを抱いた。幼少期の記憶がどこまで真実なのかは分からないが、この夕暮れの温かい光のなかで語られるレイナーの言葉は確かに彼女の心を揺さぶる。だが、彼女はそれを意地でも表情に出さない。まるで「昔のパルメリア」に戻ったかのように、冷ややかな面持ちで短く返事をした。
「……ええ、ありがとう。覚えていてくれたのは感謝するわ。だけど、今は昔話をしている暇もないの。領地を立て直すまでは、そういう余計なことを考える余裕はないから」
冷たい響きにも思えるその台詞に、レイナーは苦笑を零しつつも、納得したようにうなずいた。そして彼は軽く馬のたてがみを撫でながらパルメリアに視線を戻す。
「君がそう言うのなら仕方ない。でも、君が困ったときは、思い出してほしい。僕の領地は隣にあるし、すぐに駆けつけられる距離だから」
それ以上言葉を交わすのはやめて、パルメリアは馬車へ乗り込んだ。御者に合図し、静かに扉を閉める。車窓から見えるレイナーの姿は、夕暮れのシルエットに溶け込むように遠ざかっていく。彼は「またね」とでも言うように軽く手を振り、少し寂しげな笑みを浮かべているのが見えた。
馬車が動き出し、道を進むにつれて、レイナーの姿はみるみる小さくなっていく。パルメリアは深く息をつき、視線を外へ向けたまま瞳を閉じた。今はただ、「領地を立て直す」という彼女の大義を優先すべきと考えている。かつての幼馴染との再会がどれほど胸を揺さぶっても、それに甘んじて浸る時間はない。
――それでも、ほんのわずかな安らぎを感じたのは事実だ。夕日に照らされるレイナーの笑顔には、子ども時代の思い出が確かに宿っていた。冷めきった貴族社会や破滅を回避するための戦略とはまるで無縁の、あたたかい記憶。どこかほろ苦い懐かしさと、心の奥にわずかなぬくもりを生む感覚を、パルメリアははっきりと感じていた。
(ここでは誰もが、ゲームの設定なんかじゃなく、本当に生きている。レイナーも、彼の領地も。私が何もしなければ、この世界は変わらない)
夕陽が徐々に沈みきるまでの間、パルメリアは旅の疲れを感じつつも、落ち着かない胸の鼓動を必死で静めていた。レイナーが「君なら変えられる」と告げた言葉が、何度も脳裏に響く。あのときの微笑みが、本物の信頼に基づくものだとしたら――彼女がなすべき使命はますます明確だろう。
そして、馬車はゆるやかな音を立てながら夕闇の道を進んでいく。視察で見た領地の悲惨さと、レイナーとの再会がパルメリアの中で交錯し、彼女の決意をさらに固める。ほんの少しだけ思い出す“花を摘んだ日々”の記憶が、今の彼女をやさしく支えているようにも感じられた。
夜へ近づき始めた空を見上げ、パルメリアは目を細める。まるで、夕陽が彼女に問いかけているようだった――「このまま止まっているのか、それとも進むのか」と。彼女は答えを出すまでもない。止まるつもりなど毛頭ないのだ。何があろうと、領地を立て直すために前へ進む。それが、悪役令嬢として破滅を回避する唯一の道だと信じているのだから。
柔らかな風が、馬車の窓から軽く吹き込んで、彼女の金色の髪を揺らした。パルメリアは小さく息をつき、胸に手をあてる。昼間の視察で抱いた危機感が熱を帯び、レイナーの言葉がその火にさらに油を注いだように思えた。何ができるかは未知数でも、踏み出さなければ何も変わらない。
(この領地を立て直す。それが、今の私にとって最初の一歩。レイナーに言われたからでも、昔を思い出したからでもない。自分の手で運命を切り開くため――それだけのこと)
そう心の中で宣言し、パルメリアは目を開いて顔を上げる。薄暗い車内には、かすかに赤い夕日が差し込み、彼女の横顔を映し出している。窓の外では、もう彼女を見送るレイナーの姿は消え、代わりに静かな街道が続いていた。やがて完全に日が沈めば、辺りは夜の闇に支配されるだろう。
だが、彼女の内側には確かな光が芽生えている。レイナーとの再会が、それを呼び起こしたことは間違いない。視察で抱いた危機感と、幼馴染の言葉が混じり合い、「自分がやらなければ」という意志を一層固めたのだ。
これから先、どのような障害や苦労が待ち受けているとしても、パルメリアは歩みを止めるつもりはない。破滅の運命を変えるためにも、領地の荒廃を救うためにも、やるべきことは山積みだ。彼女は夕闇に溶ける空を見つめながら、静かに拳を握りしめる。
(レイナー、あなたが信じてくれるのなら……私もあきらめない。こんな運命は、絶対に乗り越えてやる)
そんな小さな誓いを胸に刻み、パルメリアの馬車は再びゆっくりと動き出した。西の空に沈む夕陽が、最後の名残の光を投げかける。彼女が目を閉じると、遠くで「また会おう」というレイナーの声が風に乗って聞こえた気がした。実際にはただの空耳かもしれないが、それでも彼女の胸はかすかに温かいままだ。
こうして、夕陽の下での再会は、パルメリアにとって「過去の思い出」と「現在の希望」を繋ぐ短くも大きな出来事となった。レイナーはいつも通り静かな微笑で彼女を信じ、彼女は凛とした態度でその期待を受け止める。そして、夜の闇へ向けて馬車が進むなか、少女の決意はますます揺るぎないものへと変わっていく。




