第37話 王太子の葛藤①
王国の情勢が日増しに揺れ動き、各地からの蜂起が次々と報じられる中、王都の宮廷では、王太子ロデリックが深い苦悩の淵に立たされていた。
かつては平穏を保っていたこの王国が、今や「革命」という言葉を隠し切れないほどに混乱へ近づいている。コレット領で起こったパルメリアの抵抗と改革が、一気に各地方へと波及し、保守派を動揺させているのは明白だった。
その中心にいるはずのロデリックもまた、王家の人間としての責務と、改革を望む心の板挟みに苦しんでいる――それが現在の彼の真実の姿であった。
夕闇が差し始めた王宮の廊下には、金色の装飾と豪奢な絨毯が敷き詰められている。かつてはここを歩くだけで高揚感を得られたロデリックも、いまは冷たい石の壁をただ重苦しく感じるだけだった。
周囲には、保守派の貴族や役人が慌ただしく行き来し、すれ違いざまに彼へ向ける眼差しは敬意というよりも「動向を探る」視線に近い。ときおり、ひそひそと交わされる会話の断片が耳に飛び込む。
「王太子殿下はいまだはっきりとした鎮圧命令を出されていないとか……」
「コレット領に甘い態度を示していれば、今後の継承にも関わるだろうな。公爵派が黙っていないぞ」
ロデリックはその声を聞き流すように首を振り、先を急いだ。王宮の奥には、父王との謁見が待っている。
王太子として、国を守るためにいま何が必要なのか――保守派は、自分たちの都合に沿うよう、ロデリックに強く圧力をかけている。ベルモント公爵派から送られた書簡には、「王太子が躊躇するなら、わたくしどもが王を直接動かす」といった傲慢な文言すら含まれていた。
その度にロデリックの胸中で湧き上がるのは、怒りと無力感。どれだけ自分が強く反論しようとしても、老いた父王が中心となって国を改革する展望は見えない。ましてや、多くの貴族と官僚がベルモント公爵に追従する現実がある。
長い廊下を抜け、かつて王国の威厳を象徴した玉座の間。その奥にある小部屋が、いま父王の私室になっている。
扉を開けると、しんと静まり返った空気がロデリックを迎え入れた。窓から差し込む夕日を背に、父王は深くソファにもたれ、目を閉じている。部屋の中には数名の侍医や侍従が控えていたが、王の健康状態は明らかに芳しくない。
「父上、お加減はいかがでしょうか」
ロデリックが一礼して声をかけると、父王は重そうにまぶたを開いた。髪にはすっかり白いものが混じり、かつての王者の気迫は薄れている。それでも、一度はこの国を強大な基盤へ導いた当事者なのだ。ロデリックにとっては、尊敬と同時に、いまの状態への苦しみを感じずにいられない存在である。
父王は疲れた表情で息をつき、薄く笑みを浮かべた。
「お前こそ、忙しい日々を過ごしているだろう。……国の混乱が続くなか、王太子として苦労をかける」
「はい。ですが、どうにか父上のお力を借りて、早急に事態を収拾したいと考えております」
ロデリックは慎重に言葉を選んだ。保守派が大勢を占めるこの宮廷で、父王を説得しなければ何も変わらない。彼女――パルメリアが進める改革を認めるかどうかが、いま最大の焦点となっているからだ。
だが、父王の瞳はかすかに曇り、まるで遠くを見つめるように首をかしげる。
「わしは……わしはな、すでに体も衰えていて、政治に口出しできるほどの元気は残っておらん。ベルモント公爵派が動いているようだが、彼らはこの国を守るための戦いだと言っておる……」
「しかし、彼らのやり方では民の不満は爆発する一方。実際、コレット領でのパルメリアたちが広げた改革が、各地で支持を集めています。強硬策を取れば、いまの王国は……」
言葉を続けようとするロデリックを、父王は弱々しく手を上げて制する。その動きに侍従が慌てて駆け寄り、王の体勢を整えた。
「お前が言いたいことはわかる……が、わしはもう……。これは時の流れというものだ。国がどう変わろうとも、その結末をわしが左右できるとは思えん」
王として長い年月を生き、いまや老境に差し掛かった父の姿は、ロデリックに深い無力感をもたらした。
数分ほど父王とやり取りを続けても、有意義な方向へ話は進まない。王は疲れたように目を伏せ、結局ベルモント公爵派への明確な対応を示すこともなければ、パルメリアの改革を認めるとも言わない曖昧な態度を保ち続けた。
(結局、父上は政務もろくに見られず、保守派に宮廷を牛耳られている……このままでは、腐敗がますます深まるだけだ)
ロデリックは歯ぎしりしそうな思いをこらえながら謁見の場を辞する。部屋を出る際、振り返ると父王は疲れた様子で微笑んでいるようにも見えたが、その瞳はどこか無気力な光に沈んでいた。
王太子としての立場は、王国の後継者という大きな権威を意味する一方、宮廷内では保守派による監視の対象にもなる。
廊下へ戻ると、すでにそこには複数の貴族が待ち構えていた。いずれも華美な衣服を身に纏いながら、王太子の顔色を探るように視線を向けている。
「殿下、コレット領の反逆行為は、もはや看過できない局面に達しております。早急に殲滅命令を――」
「殿下ならば、わたくしどもにご賛同くださいますよね。民衆の噂などに惑わされては、王家の威信が損なわれますぞ」
押し寄せる言葉に、ロデリックは一瞬眉をひそめる。彼らには、パルメリアや民衆の声など微塵も聞く耳を持たず、ただ「王権を守るために力で制圧せよ」と迫る意図しか感じられない。
ロデリックは苦々しげに唇を噛みながらも、短く答える。
「父上とのご相談を踏まえ、近々結論を出す。……それまでは一刻の猶予をもって対応してもらいたい」
これ以上の会話は不毛だと感じ、先を急ごうとするロデリックの背に、貴族たちはなおも追いすがろうとする。しかし、近衛兵が間に入って彼らを制止すると、やむなくロデリックはその場を離れた。
(彼らが本気で私を押さえつけようとすれば、すぐにでも自分の地位は危うくなるかもしれない。だが、パルメリアを見捨てるわけにはいかないし、腐敗を放置すれば、この国はさらに混乱を深めてしまう)
その夜、ロデリックは自室に籠り、机の上に散らばる書簡や地図を睨みつけていた。
書簡の多くはベルモント公爵派からのものだ。コレット領をはじめ各地の蜂起を「反乱」と断定し、一刻も早い鎮圧を求める要請が繰り返し書かれている。中には、王太子の立場を利用して「即時に全軍を動員しろ」と強制するような内容も混じっており、それを読むだけで胸が苦しくなる。
その一方で、隅に置かれた机の引き出しには、パルメリアから密かに送られた情報が保管されている。ベルモント公爵らがどれだけ国庫を流用し、不正を行ってきたか、具体的な証拠の数々。パルメリアと連携して内側から腐敗を暴ければ、王国を救えるかもしれない――そう思う自分もいる。
(保守派の言う「王家の威厳」は本当に正しいのか? 今の父上は、その「威厳」とやらに支えられているのではなく、むしろ食いつぶされているようにしか見えない)
何度も同じ思考を巡らせ、答えは出ず。彼の意識には、パルメリアの気高い姿がはっきりと浮かぶ。
――あの視察で初めてコレット領の現状を知ったとき、彼女が苦しむ領民の姿を必死に変えようとしていた情景が鮮明に思い返される。よくある傲慢な貴族令嬢などではなく、国全体を改革し得るだけの強い意志を持つ女性。その瞳の輝きに、ロデリックは王家の在り方を改めて考えさせられたのだ。
(自分には、いったい何ができる? 正統な王位継承者として、父王を説得するか。それとも、すべてを捨ててパルメリアのもとに馳せ参じるか――)
彼は目を閉じ、深く息を吐く。どちらの道を選んでも、多大な犠牲や混乱が伴うだろう。だが、現状を放置すれば、さらに多くの血が流れるのは確実だ。
翌朝、まだ陽の昇りきらぬ頃、ロデリックは意を決して宮廷の奥へ足を向けた。父王との直接の対話では何も変わらなかったが、まだ彼にできることはある――王太子としての威光を使い、宮廷官僚の一部を動かすという策だった。
人目を避けるように着いた先は、かつて彼が学問を修めた王立文書庫。ここにはさまざまな政令や布告、王国の決定事項などが整然と記録されているはずだった。もし保守派が法の抜け道を利用し、自分たちの横暴を正当化しようとしているなら、逆にそれを暴ける法整備や前例の文献があるかもしれない。
ひっそりした書庫の扉を開けると、数名の学者風の官吏が書類を手に忙しなく動いている。ロデリックを見つけると彼らは一斉に驚いた表情を浮かべたが、彼が「静かに頼む」とだけ告げると、ぎこちなく頭を下げる。
(もしここで使えそうな条文が見つかれば、貴族による強権発動を抑制できるかもしれない。王太子としての位置付けを利用して、父王に提示できれば、状況を変える一手になる可能性がある)
ロデリックは奥の書棚へと進み、古い巻物や分厚い法令集を手に取りながら、必死にページをめくった。しかし、時間は限られている。保守派がベルモント公爵の意向で軍を動かすのはいつ起きてもおかしくない。
焦りに駆られつつも書類を読み進めるうち、ロデリックはどうにもならない現実を痛感する。あらゆる法が、長年の貴族政治を前提に編成されており、民衆の権利については曖昧にしか記されていないのだ。むしろ、貴族の特権を守るために文言が巧妙に編成されている部分が目立つ。
(この国を動かしているのは、結局こうした歴史と貴族たちの利権。それを根こそぎ正そうとするなら、もはやパルメリアの方法で打ち砕くしかないのだろうか……)
苛立ちを隠せず、書棚を閉じるとき、ふとパルメリアの面影が脳裏をよぎる。正面から王国軍に挑み、圧倒的に不利な状況でも諦めず、各地に連鎖する蜂起を生み出すほどの行動力――その姿を思い浮かべるたび、ロデリックの胸は強い鼓動を打つ。
彼女なら、この膠着した国を変えられるかもしれない、と。だが同時に、自分は王太子として、彼女と同じ行動を取れないもどかしさに苛まれるのだ。




