第35話 希望の灯火②
避難所を巡回しているうちに、日が傾き始めた。窓の外には夕焼けが広がり、赤く染まる空が戦乱の不穏さを連想させる。
パルメリアは一度廊下の壁に背を預け、静かに息を整えた。この一日で相当数の人々と対話し、その分だけ重たい現実を抱えている。だが、その全てが無力感ではなく、かすかな希望へと転じているのを彼女は感じ取っていた。
廊下の先からは、簡易的な調理場が見える。そこには二人の母親が数人の子どもたちと一緒にコッペパンのような薄いパンを分け合っている光景があった。子どもたちの目が輝いていて、かすかな笑い声まで聞こえてくる。
パルメリアはその穏やかな場面を見て、心がじんわりと温まるのを覚えた。戦乱のただなかであっても、人と人とが支え合う姿がある――その事実が、どれほど大切な意味を持つかを改めて思い知らされる。
(この学舎のように、たとえ臨時の避難所でも、人が集まり助け合えば小さな灯火が生まれる。皆が繋がり、協力することが大きな力になるはず)
そこへ足音を潜めるようにガブリエルが近づき、小声で声をかける。
「パルメリア様、そろそろ本部へ戻り、次の打ち合わせの時間となります。前線からの報告も急ぎ確認しないと……」
彼の声音には警戒と憂慮が混じっている。戦況は常に動いているのだ。パルメリアは短く答えてから、もう一度調理場のほうを見る。子どもたちの笑みが夕日の赤い光のなかで輝いている。その一瞬は、彼女にとって宝石のように貴重なものに思えた。
パルメリアは再び歩み出す。去り際、子どもたちの中の一人が彼女の後ろ姿を見つけて大きく手を振った。
彼女は振り向き、小さく手を振り返す。子どもたちの声が混じった笑いが廊下にこだまする。ここは戦場ではない――だが、先には戦いが迫っている。それでも、この一瞬の平和が確かにあることを、彼女は忘れまいと決意した。
「パルメリア様、こっちも何とか踏ん張りますから……絶対に負けないでくださいね!」
「お嬢様がいるから、私たちも安心して子どもを育てられます!」
部屋を出ようとする彼女に向かって、そんな激励が飛んでくる。パルメリアはその言葉の重みを噛みしめながら、はっきりと答えた。
「私がいる限り、皆を裏切るような真似はしません。……ありがとう。共に頑張りましょう」
その言葉は、ただの約束ではなく、命を懸けた誓いでもあった。彼女が強い意志を持ち続ける限り、人々は自分もまた何かできるのではないかと心の奥で奮い立つ。
避難所を後にして、本部へ帰る道。外は夕暮れが夜へと移り変わろうとする時間帯で、空に浮かぶ月がぼんやりと光を放っている。街道の両脇にはまだ数軒の民家があるが、多くの住民は避難所か親類のいる他地域へ移っているため、通りはいつになく閑散としていた。
時おり吹く風が冷たく、パルメリアは軽くマントを引き寄せる。そうしながらも、頭のなかでは先ほどの光景が何度もよみがえっていた。
――泣きじゃくる母親や老人を励まし、子どもと笑顔を交わし合い、炊き出しを手伝いながら皆に声をかける自分。
かつての彼女なら、こんなふうに人と膝を交えることなど想像もできなかったかもしれない。どこかで「貴族は貴族らしく」「使用人には命令を下すもの」という意識が染み付いていたはずだ。
しかし今は違う。幾多の困難や人々とのふれあいを経て、彼女は「貴族だから」ではなく「一人の人間として」仲間と手を携え、共に未来を切り開こうとしている。
(もし私がこの領地の人々を想わず、ただ自分だけが安全圏に逃げ込んでいたら、何も変わらなかったでしょう。けれど、もうあんなありきたりの結末にはしたくない。私はここで、人と人とが力を合わせる姿を見ているから)
夜の帳がさらに深まりはじめるころ、本部の灯りが遠目に見えてきた。そこには既にガブリエルやレイナー、クラリスが待機しており、前線からの最新報告を確認しているらしい。
パルメリアはふと足を止め、闇夜に浮かぶ灯火を見つめる。それは大規模な戦乱の中でも消さずに守りたい光――自分や仲間たちの意志を示すかのように、揺らぎながらも確かに存在していた。
建物の前には義勇軍の若者数名が交代の哨戒を行っており、パルメリアを見かけると姿勢を正して敬礼する。どこか気恥ずかしそうに「お帰りなさい、パルメリア様」と声をかけるその表情には、まだ少年のようなあどけなさが残っていた。
彼女は微笑みながら「ありがとう。夜風が冷えるから、無理はしないようにね」と言葉を投げかける。すると、青年たちは誇らしげにうなずき、「任せてください!」と答える。その小さなやり取りが、まるで家族のような温かさをもたらしていた。
(これこそが私の戦う理由。この温かい灯火を守るためなら、私は何度でも剣を握るし、立ち向かっていけるわ)
パルメリアは心の中でそう強く誓い、扉の向こうへ足を踏み入れる。本部の中では、すでに次なる作戦の打ち合わせが始まっているだろう。
こうして避難所を巡ったパルメリアは、人々の不安を和らげながら、改めて「自分は彼らを守るために戦っているのだ」という思いを再確認していた。決して前線だけが戦場ではない。炊き出し、負傷者の看護、子どもたちの世話、物資の管理――あらゆる場面で人々は懸命に生きており、その営みこそが彼女の「希望の灯火」を絶やさない源になっている。
大規模な戦いが始まり、危険が日増しに高まるなかでも、この灯火は人々の胸に確かに燃え続けている。パルメリアはこれを導く存在であり、同時に皆から支えられる立場でもある。
戦場では勝ち負けがすべてを決めるかもしれないが、この避難所で交わされる言葉や笑顔、協力こそが未来へつながる生命線なのだ――と、彼女は深く感じ取っていた。
夜の静寂が学舎を包み、かすかな明かりの中で眠りにつく人々の姿が映し出される。そんな場面を胸に刻み込むように見届けると、パルメリアは少しだけ迷った末に、もう一度扉を開けて外へ出た。
次の瞬間、冷たい風が彼女の頬をかすめる。遠くでは、森の向こうで焚き火の光が揺れている。おそらく前線に近い拠点で休息をとる兵士たちの灯りだろう。
もはや明日が来るまで時間はわずか。敵がいつ全面攻撃を仕掛けてくるか分からない状況で、彼女は一刻の猶予も惜しむ。とはいえ、酷使した頭と体を休めることもまた必要だ。明日の戦いに備え、パルメリアは深く息を吸い込んで意識を落ち着かせる。
「どれだけ苦しくても、この灯火を守るのが私の役目――」
そのつぶやきは誰にも聞かれなかったが、夜空の闇のなかで確かな意志の形を残していた。今、戦場にいる仲間たちも、避難所にいる人々も、皆がそれぞれの場所で同じように一筋の光を見つめている。
パルメリアは凛とした足取りで宿舎へ戻り、明日に備えるため目を閉じる。心の中には、人々の笑顔と決意が鮮明に刻まれていた。いずれ訪れる激戦の嵐を思えば、静かな夜ほどかえって不安を煽るものはない。
それでも――彼女はもうためらわない。避難所に灯る小さな灯火が、民衆の支え合う姿が、そして何より自分を支えてくれる仲間たちの存在が、絶対に消えない火種となって彼女を奮い立たせるのだから。
こうして、パルメリアが避難所を巡り、人々を励ます夜は更けていく。どんなに厳しい戦いが迫っていようと、彼女の心には確かな光が宿っている。そして、その光は決して一人だけのものではない。
明日がどれほど荒れ狂う運命をもたらしたとしても、ここにいる人々が互いを信じ、助け合う限り――希望の灯火は、必ず未来を照らし続けるはずなのだ。
(これが私たちの戦い。剣を振るうだけじゃなく、涙を拭い、笑顔を作り合うことで進む道もある。そんな灯火こそ、私が守るべきもの……)
夜空の星々は、遠くから揺るぎない輝きを放つ。それは、コレット領の夜を見守るかのようにも映っていた。避難所を巡る人々の想いと、パルメリアの決断――すべてが明日の戦いへとつながる一筋の光となり、静かに燃え続けている。




