第3話 領地の惨状②
馬車の周囲に集まる村人たちの姿を見渡すと、どの顔にも疲労と諦観が色濃く漂っている。子どもは少なく、大人の多くが痩せ細っており、村外へ出稼ぎに行ったまま帰らない人も多いらしい。荒れた畑にじっと視線を落とす若い男性が一人、「せめて種子だけでもまともに買えれば……」とつぶやいたが、すぐに友人らしき男に「下手なこと言うな」と制されて沈黙する。きっと、公爵家の令嬢を怒らせれば、報復を受けるという恐怖があるのだろう。
そんな空気に気づいたのか、パルメリアは静かに深呼吸し、できるだけ穏やかな声で言葉を紡ぐ。
「あなたたちが苦しんでいることは分かりました。私にどこまでできるかはまだ分からないけれど、まずは必要な物資や支援の要望を整理してほしいの。改めて報告書を作っていただければ、父に取り次いで宮廷にも補助を願い出ます」
冷静な指示のように聞こえるが、パルメリアの胸には強い危機感が渦巻いていた。本来なら、貴族令嬢としてはこんな「現場」の苦しみを見ることもないはずだ。だが、彼女は目を背けるつもりはない。むしろ、ここが深刻な状況であればあるほど、早急に手を打たなければ、破滅への道を加速させるだけだと痛感する。
村長や周囲の村人たちは、不思議そうな面持ちで顔を見合わせた。令嬢に求められた報告書など、どうまとめればよいのか分からないかもしれない。だが、パルメリアの言葉には強い意志がこもっており、軽々しく拒否する気にはなれない様子だ。
(こうして口先だけ支援を約束する貴族もいるのかもしれない。でも、私は本気よ。放っておけば、いずれ誰も助からなくなるかもしれないし……私自身だって危うい)
そう胸の内でつぶやくように思い定めると、パルメリアは再び荒れ果てた畑や崩れ落ちた家屋に視線を巡らす。何かしなければ……という思いが熱くこみ上げてくる一方で、具体策をどう練り上げるかは未定だ。彼女は当てもなく促すわけにはいかないが、とにかく情報を集めて父公爵に進言するしかない。
「当面は、私が動ける範囲で必要な物資を手配するよう努力します。村長さん、村の代表者と相談して、困っている点をまとめてもらえますか?」
「……は、はい。お嬢様のご厚意にすがるしかありません。ありがとうございます。早速皆で話し合ってみます」
老人は深々と頭を下げ、他の村人もその場でペコリとお辞儀をする。彼らにとっては藁にもすがる思いだろう。これまで長く放置されてきた中、急に令嬢が顔を出して何かをするとは夢にも思わなかったのだ。
村をひととおり見回った後、パルメリアの胸中には言いようのない重苦しさが残った。行き交う人々は皆疲れ切り、表情には活気がない。食糧不足や農具の老朽化はもちろん、病人や高齢者の手助けがままならず、村全体が衰退の一途をたどっているのが明白だ。
「これほどの困窮を、どうして誰も手を打たずに放置していたのかしら……」
彼女は馬車へ戻る途中、ぼそりとつぶやく。侍女たちも複雑な表情を浮かべつつ、何も言えない。彼女らは当然知っていたのかもしれないが、令嬢に直接訴える術など持ち合わせていなかったのだろう。結局、ここで立場を持つのは貴族だけであり、領地の現場を見つめる者は少なかったに違いない。
――やがて馬車が動き出し、村の景色が少しずつ遠ざかっていく。壊れかけた家々や、疲弊した村人の姿が視界の端に小さくなっていくのを、パルメリアは黙ったまま見送った。胸が締めつけられるような痛みを覚えながらも、やがて視線を前へ向ける。
(私のことだけを考えていれば済むなら、それでも良かったかもしれない。でも、そうはいかないわね。この領地が破綻すれば、公爵家の未来も危うい。つまり私の破滅も、避けようがなくなる……)
もはや、ただ「悪役令嬢ルートの回避」だけを考えていては足りない。領地全体が危機に瀕しているのであれば、対策を講じなければ被害は拡大し、いずれ彼女自身の地位も一気に崩れ落ちることになりかねない。前世の記憶があるとはいえ、具体的な農法や税制改革をどう進めるのか、全貌はまだ見えていない。それでも、逃げるわけにはいかなかった。
館へ戻るまでの道中、パルメリアは幾度となく馬車の窓を開き、外の景色を凝視した。ところどころ、土がやせ細った痕跡が見え、大雨か洪水の痕が残る場所もある。道に落ちた小石や亀裂が馬車を大きく揺らし、彼女は何度かバランスを崩しそうになったが、それでも必死に目を離さなかった。
侍女が心配して「お嬢様、休まれては……」と声をかけても、パルメリアは控えめに首を振るだけ。今は少しでも多くの情報を頭に刻み、領地の苦境を肌で感じることが重要だと思っていた。過去の自分なら、こんな不便な道をわざわざ選ぶはずもなかったが、彼女にとっては現実を直視することこそが先決だったのだ。
(このままじゃ、本当にまずい状態。父にすぐ報告するだけでなく、私自身が持っている知識を活かさなきゃ。前世で多少勉強した経済や農業の情報を応用できれば……あるいは、何か手を打てるはず)
そう考えると、不思議と心の中に小さな灯がともるような感覚があった。もともとゲーム世界の悪役令嬢という立場を「避けるべき不幸」として考えていたが、ここまでの状況を目の当たりにすると、むしろ変革の余地があるとも感じられる。破滅を回避するだけでなく、領地そのものを立て直してしまえば、すべて好転するかもしれない――そんな希望の芽生えが、彼女を鼓舞する。
そして、馬車が館の近くまで戻ってきたころ、パルメリアは静かに息を吐いた。一日の視察を終えた疲れがどっと押し寄せてくるが、同時に胸の奥が熱く燃え上がるようでもある。誰もが想像しないほど苦しい道のりかもしれないが、何もしなければ全員が沈んでいくだけだ。
「――領地の惨状を見過ごせば、いずれ破綻するのは明らか」
彼女は誰にともなくつぶやくように言葉を落とす。馬車の周囲にいた侍女や家令たちが一瞬だけぎくりと固まったように見えたが、すぐにパルメリアの表情を確認し、目を伏せる。いつもなら「貴族らしく華麗な微笑」を浮かべるはずの彼女が、明らかに沈痛な面持ちであることに気づき、声をかけるべきか逡巡しているのだろう。
(そう……私は目を背けない。やるべきことをやるだけ。どんなに反対されても、私の知る限りの方法を試してみるしかないわ)
その思いが、静かに確信へと変わる。一度決意を固めれば、パルメリアは動じないタイプだ。彼女はゆっくりと馬車から降り、屋敷の敷石を踏みしめながら、侍女に軽く一言だけ伝えた。
「疲れたから少し休むわ。父にも話がある。報告書は近いうちにまとめて提出するように村長たちに伝えておいて」
侍女は「承知いたしました」と頭を下げる。その背中を横目に見ながら、パルメリアは館のドアを押し開けた。普段なら見慣れた豪華な内装も、今はまるで別世界のように感じられる。村で見た貧しさと、このきらびやかな屋敷の落差が激しすぎるのだ。
館の廊下を進むたびに、不意に思い出すのは村人たちの沈んだ表情。傷んだ屋根、痛々しいほど荒んだ畑、そして笑みを失った子どもたちの姿――このまま放置すれば、本当にどうなるか想像もしたくない。書類を整理するだけでも途方に暮れるかもしれないが、彼女は逃げずに取り組むつもりだった。
(領地の状況は、すでに深刻だ。何もしなければ事態はさらに悪化する。それは領民の生活だけでなく……私自身の未来にも大きな影響を及ぼすはず。だからこそ、私が動かないといけない)
パルメリアの決意は、視察を経てより強くなった。かつては華やかなドレスと社交界だけに目を向けていた“公爵令嬢”が、今は異様なほどの危機感を抱いている。それこそが、この世界で自らの人生を守り抜き、同時に領地も救うための必然の一歩――そう彼女は悟りかけていた。くぐもったままの夜明け前の空気を感じつつ、彼女は静かに目を閉じ、明日へ向けて意を固めるのである。