第22話 静かなる決意①
ユリウスの来訪から、すでに数日が過ぎていた。革命派のリーダーという危うい男と対話を重ねたことで、パルメリアは「腐敗とどう向き合うか」を改めて考えさせられている。彼が示した激しい情熱は、パルメリアの胸にも確かな火を灯したが、同時に王太子や保守派、そして幼馴染のレイナーとの関係まで複雑にしてしまいそうな危惧も拭えない。
そんな夜、パルメリアは執務室に籠り、山積みになった書類とにらめっこを続けていた。
机の上には、改革の進捗をまとめた報告や、学舎での教育成果の記録、さらに領民たちの生活改善に関する詳細データがずらりと並んでいる。いつもなら、彼女の心を熱くさせる「成果物」のはずなのに、今夜はどこか意識が散漫になってしまう。何度読み返しても、頭に集中できないのだ。
(ユリウスのことやレイナーの想い、そして王太子ロデリックの動向も気になるし……。こんなに一度にいろいろ抱えていて、私に務まるのかしら)
書類をめくる手が止まり、彼女は大きく息を吐く。深夜の静けさが館を包むなか、かすかに響くのは廊下を回る警備兵の足音と、自分の鼓動だけ。
心が揺れる理由は、一つだけではない。腐敗を正すための行動を進めながら、恋愛面でもいくつもの気配を感じ、どれもが無視できない重みを持ってパルメリアの胸に刺さっている。
そんなとき、控えめなノックの音が執務室の扉を震わせた。
この深夜の時間帯に誰だろうと思いつつ、「入って」と低く呼びかけると、扉を開けて姿を見せたのはガブリエル・ローウェルだった。彼は騎士団でも随一と呼ばれる腕を持ちながら、かつて腐敗を糾弾して左遷されたという経歴を持ち、今はパルメリアの護衛役を担っている。
「夜分に失礼いたします、パルメリア様。まだお仕事を?」
灯りの下に浮かぶガブリエルの姿は、どこか神経を張り詰めた雰囲気を漂わせている。彼は廊下よりもさらに静かに部屋に足を踏み入れ、パルメリアの机上に乱雑に置かれた書類に目をやった。
パルメリアは書類をさっと脇へまとめ、「ええ、もう少しだけ」と答える。彼がここまで表情を険しくしているのは珍しい。
「何か気になることでも?」
パルメリアが問いかけると、ガブリエルはわずかに逡巡したのち、低い声で告げる。
「先ほど、城門付近に見慣れぬ人影があったとの報告を受けました。夜分ですので慎重に調べておりますが、万が一にも何らかの刺客であれば、パルメリア様の身に危険が及ぶ可能性があります。護衛を増員するか、警備を強化するか、ご判断を仰ぎたく……」
パルメリアはその言葉に「やっぱり」と苦笑を浮かべる。最近、保守派や革命派など、領地に出入りする人間は増えているし、いずれ暗殺未遂のような事件が起きてもおかしくないと覚悟している。
しかし、彼女は躊躇なく首を振った。
「護衛をさらに増やしても仕事に集中できないわ。あなたがいれば十分だと思っているし、そうそう簡単に私を狙う刺客が入り込めるとも思えない。……とはいえ、油断は禁物ね。警戒だけはよろしく頼むわ」
ガブリエルはしばし唇を結んでいたが、彼女の冷静な態度を受け入れるように深くうなずく。
「承知しました。私がしっかりと見張ります。ですが、くれぐれもお気をつけください」
その声には、騎士としての義務以上の何かを感じさせる――まるで「あなたが傷つくのは絶対に避けたい」という強い思いがこもっているようで、パルメリアは一瞬どきりとする。
パルメリアは席を立ち、夜の寒さを紛らわせるように肩をすくめながら、少しだけ部屋の奥へ歩み寄った。ガブリエルは扉近くに佇み、彼女の動きを見逃さないよう注意を払っている。
彼女は机に肘をつき、「そういえば」と低くつぶやく。ガブリエルがかすかに首をかしげると、パルメリアは振り返り、まっすぐ彼の瞳を見た。
「あなた、かつて上官の腐敗を暴こうとして騎士団から外されたと聞いたわ。……私の改革が本格的に王宮や貴族社会を揺さぶり始めたら、同じような危険が何度もやってくるでしょうね。あなたを巻き込んでしまっていいのかしら」
彼女の言葉は、ある意味で「自分から離れてもいいのよ」という逃げ道を与えているようにも聞こえる。だが、ガブリエルは一歩も退かず、硬い声で答えた。
「私はもう、退くつもりはありません。パルメリア様の改革が国の腐敗を正す道であるなら、たとえどんな危険が待ち受けようと騎士としてお守りいたします。それが、私自身の正義でもあるのです」
その瞬間、パルメリアは胸が締めつけられるような感覚を覚えた。彼の誠実な眼差しが痛いほど伝わり、同時に彼女の中で潜む不安を少しだけ和らげてくれる。
王太子や革命派に揺さぶられながらも、こうして傍らで護ろうとしてくれる騎士がいる――その事実が、彼女の心に大きな支えを与えていた。
(もし私がこのまま大きなうねりを起こしたら、ガブリエルはどんな目に遭うのか。それでも彼は、付いてきてくれると言うんだわ)
頭の中でそんな思いが渦巻く。パルメリアは一瞬視線を外し、深く息を吐いた。
部屋の片隅には、ランプの柔らかな灯りがゆらめいている。窓の外は漆黒の夜空が広がり、遠くで警備兵の足音が行き過ぎるだけ。
パルメリアはじっとガブリエルを見つめ、「ありがとう」と小さくつぶやいた。彼はうなずき、静かに距離をとる。
騎士としての矜持と、腐敗を拒む強さを持つこの男の存在が、彼女には貴重だった。ロデリックのように王太子として権威を背負っているわけでも、ユリウスのように激しい革命思想を掲げているわけでもない。しかし、ガブリエルは黙っていてもパルメリアの苦悩を受け止める懐の深さを持っている――そんな印象を彼女は抱いている。
(真っ先に危険を知らせてくれるのも、私を守ろうとしてくれるのも、いつもこの人。……私がもし、大きな賭けに出ることになったら、彼の力は欠かせないわ)
パルメリアの中で、ガブリエルは単なる護衛以上の存在になりつつある。しかし、それが恋愛感情なのか、同志としての信頼なのかは、まだ彼女自身にもはっきりわからない。ただ、これから先、体制そのものと対峙する可能性を考えれば、ガブリエルの支えは大きな意味を持つだろう。




