第2話 新たな日常②
午後の終わりには、ドレスの仕立て職人が屋敷を訪れる。華麗な生地を合わせ、今年の流行カラーやレースの配置を説明されても、私からすれば「へえ、なるほど……」という程度の感想しかない。どんな衣装が貴族社会で支持されるのか、まったく要領を得ないのだ。だが、ここで何も意見を出さなければ「お嬢様の好みがわからない」と職人を困らせてしまうから、必死で考えて口を挟む。
「……この色使い、とても素敵だと思うわ。もう少し袖にボリュームがあってもいいかしら? 動きやすさを重視したいの」
なんて偉そうに言ってみるものの、実際にはよく分からずに言葉を選んでいるだけ。でも、職人は「かしこまりました。お嬢様のおっしゃる通り、動きやすさと華やかさの両立を工夫してみます」とにこやかに答えてくれた。どうやらそこまでトンチンカンな要望ではなかったらしい。
昔の私なら、こんな場面でわくわくしながら生地やレースを選びたかったかもしれない。だけど今は、「追放されて破滅する未来」が頭を離れない。ドレス試着に心を弾ませる余裕なんて皆無だ。とはいえ、何もかも拒んでしまえば誰かが怪しむし、周囲の視線を避けながら最適解を探るのはなかなか骨が折れる。
そうしてようやく日が暮れ、何度も着替えとレッスンを繰り返した私は、完全にクタクタになって自室へ戻った。前世の残業と比べると体力的にはまだ余裕があるが、精神的には「こんな優雅な生活」を何の違和感もなく続けるのがどれほど難しいか、嫌というほど思い知らされる。
「はあ……前世ではせいぜいシャワーを浴びて眠るだけの毎日だったけど、こっちはこっちでスケジュール盛りだくさん……」
そうつぶやくと、侍女の一人が「お疲れではありませんか。温かいお茶をお持ちいたしましょうか?」と申し出てくれる。たかが一言に、心がじんわりと温まるのを感じた。前世ではこんな些細な気遣いすらあまり得られなかったからだ。
そして、ハーブの香りがほのかに広がるティーカップを両手で包み込みながら、少しだけ呼吸を整える。
(こんな日常、慣れるまでが勝負ね。早く「パルメリア・コレット」として自然に振る舞えるようにならないと、周りに不審がられてしまうわ)
一方で、心の底には常に「破滅エンドを回避する」という課題が渦巻いている。このまま礼儀作法やドレス選びに没頭しているだけでは、いつかゲームのシナリオ通りに悪役として断罪されてしまうだろう。だからこそ、今はしっかりと現状を把握し、人脈を築き、領地のことも学んでおきたい。
「そうだ……領地の情報を、少しずつ集めてみよう。前世でいうところの下調べってやつよ」
そのためには、公爵家の家臣や使用人との信頼関係を築くのが手っ取り早い。普段は公爵令嬢として高飛車に振る舞っていたパルメリアが、急に彼らとフランクに交流し始めれば不審だろうから、まずは礼儀正しく、でも優しげに声をかけるところからスタートしてみるつもりだ。
夜が更ける頃、私は机に向かい、今日あった出来事を簡単にメモする。礼儀作法の講師や音楽教師の特徴、仕立て職人の話にあった流行色、侍女たちが教えてくれた屋敷内のしきたり……。前世の会社員時代のクセで、「ログ」を取るのが習慣なのだ。
(このメモが、いつか役に立つかもしれない。貴族の文化を知らずに失敗するより、こうして少しずつでも積み上げていきたい)
そんな風に記録を続けているうち、窓の外には静かに夜の帳が降りている。ふと月を見上げれば、そこには淡い光が揺れていて、一瞬だけ事故のあの夜を思い出してしまった。まるで刺さるような痛みに似た感覚が胸を過ぎるが、今は私が「生きている」ことをただ噛みしめるしかない。
(死んだはずの私が、こうして新たな日常を送るなんて。すごいことだよね)
ベッドにもぐり込み、フカフカの枕に頭を沈めると、一日の疲れがどっとこみ上げてくる。
(でも、ここで怠けたらあっという間に「追放」とか「破滅」って展開に陥る。絶対に避けてやるんだから)
夜の闇が部屋を包み込み、柔らかな布団とかすかな花の香りに包まれながら、私は目を閉じる。もしもこのまま何もしなければ、ゲームのシナリオ通りにヒロインの引き立て役として退場させられるに違いない――そんな危機感が眠りの底まで追いかけてきそうだ。
(悪役令嬢だからって、黙って破滅を受け入れるわけにはいかない。前世の経験を活かして、もっといろいろ変えてみせる。必ず)
そう誓いつつ、まぶたが重くなっていく。高級な寝巻きや広すぎる寝室にもまだ全然慣れていないが、それでも体は悲鳴を上げるように睡魔に引き込まれていく。
こうして、転生してからの「貴族令嬢としての新しい日常」が始まった。まだ動き出したばかりだし、手探りの連続だが、少しでも破滅の未来から遠ざかるために、私は毎日を精一杯生きるしかない。前世の会社員だった苦労と、この世界での華やかな苦労は性質こそ異なるものの、どちらも簡単にはいかないという共通点がある。
(でも、やるしかない。ここで投げ出したら、もう一度手にした命がもったいないし、追放エンドや処刑エンドなんてまっぴらごめん……)
誰もいない部屋で小さく息をつき、もう一度だけ枕を抱きしめる。明日も音楽や礼儀作法の稽古が目白押しで、社交の誘いも無視できない。けれど、着実に周りを見渡しながら、自分にできる一歩を踏み出すつもりだ。
たとえこの世界では高慢ちきな“悪役令嬢”と呼ばれても、本当の私は前世で仕事に追われていた普通の会社員――その感覚を捨てずに、上手く立ち回れれば、きっと破滅の運命もねじ曲げられるはず。
(さあ、まずはこの生活に慣れよう。公爵令嬢として、周りにバレないよう、必要なことをしっかり学ぶ。それから……私が本当にやりたい事を探して、動き出すんだから)
そんな決意を胸に、私はそっと瞳を閉じる。嫌というほどふかふかの寝具に沈み込みながら、明日への小さな希望を抱きつつ、深い眠りへ落ちていく。
――こうして始まったパルメリア・コレットとしての新しい日常は、華やかなようでいて難しく、しかし確かな手応えを伴うものだった。日々のレッスンやマナーに囲まれながら、少しずつ「貴族」という役割を身につけていく。それは同時に、破滅エンドを回避するための基礎固め。大きな目標を抱えた私は、まだ誰にも知られない胸の内で、これから訪れる変革の予感を感じずにはいられなかった。
そしてこの先、どんな厳しい道が待ち受けていようとも、「自分の力で運命を変える」という決意だけは揺るがない。そうして今日もまた、悪役令嬢パルメリアとしての一日が終わり、新しい朝へ向けて時が静かに動いていくのである。