第19話 月明かりの誓い①
ひんやりとした夜風が薔薇の垣根を揺らすころ、コレット公爵家の屋敷は昼間の喧騒が嘘のように沈黙に包まれていた。
王太子ロデリックの訪問によってもたらされた波紋はまだ消えていないが、屋敷の廊下では深夜まで書類を確認する使用人や家臣たちが静かに動き回るだけ。そんな夜更け、レイナー・ブラントは仕事を終え、屋敷の庭を通り抜けて帰るところだった。
彼は隣領の下級貴族の次男として、パルメリアを支援している。幼い頃からの幼馴染という気安さもあって、改革に携わるようになったが、最近は心のどこかに妙な焦燥感を抱えている。パルメリアがかつてのように気楽に話せる存在ではなくなっている気がしてならないのだ。
敷石を踏むレイナーの足音は、夜の静寂に吸い込まれるように小さく響く。
「早く帰って休むべきだ」――そう自分に言い聞かせながら、彼はどこか心ここにあらずの状態だった。頭の中はパルメリアのことばかり。王太子が領地へ来訪してからというもの、彼女がますます注目を集めるのは良いことのはずだが、彼の胸には言葉にしがたい不安と切なさが混ざり合って渦巻いている。
(いつから、こんなにも遠く感じるようになってしまったんだろう)
そんな思いを抱え、馬屋の方へ向かおうとしたとき、ふと「レイナー?」と呼びかける声がした。
驚いて振り向くと、そこにはパルメリアが立っている。白みがかったドレスの裾からは、昼間の慌ただしさの名残ともいえる書類の束がのぞいていた。彼女の金色の髪は夜の風に揺れ、月明かりを受けて淡く輝いている。レイナーは思わず息をのんだ。
「パルメリア……まだ仕事を? こんな夜遅くまで……無理しすぎじゃないか」
いつものように声をかけるレイナーだが、胸が高鳴るのを止められない。夜の庭で二人きり――かつてなら他愛ない雑談で終わっていたはずの状況が、今ではなぜか特別な時間に思えて仕方がない。
パルメリアは小さく微笑み、書類の山を軽く抱え直した。
「ええ、まあね。領内の新しい施策の報告書が届いたばかりで、明日の朝までに目を通しておきたくて。……レイナーこそ、夜道を一人で歩くなんて珍しいわ。今日はずいぶん遅くまで残ってくれていたの?」
「……ああ、君を手伝いたい気持ちもあったし、それに最近の領地は動きが早いだろう。僕なりに状況を把握しておきたくて、オズワルドとも話していたんだ」
レイナーは言いながら、パルメリアの瞳をまっすぐに見られない。幼い頃から知っているはずの彼女なのに、なぜこんなにも緊張するのか。胸の奥が熱を帯びる自分を隠すため、視線をずらすのが精一杯だった。
ちょうどそこは中庭の中央に据えられた石のベンチがある小さな広場。月の光が噴水の水面を照らし、控えめなランタンが優しく庭を照らしている。闇に溶け込む花の香りや風の音が、耳に心地よい。
パルメリアは書類を抱えたまま、少しだけ周囲を見渡した。夜更けの庭でこうして会話するのは滅多にないことで、彼女自身も落ち着かない様子がうかがえる。
レイナーはそんな彼女を見つめ、思わず心配の言葉をかける。
「最近、特に仕事が増えているだろう。ロデリック殿下も来て、領地に注目する声が増えたと聞く。あまり無理はしないでほしい。僕にできることがあるなら何でも言ってほしいんだ」
それはいつも通りの「支えたい」という彼の気持ちの表れ。しかし、パルメリアはわずかに苦笑しながら首を横に振る。
「ええ、そうね……ありがとう。あなたがこうして寄り添ってくれるのはとても心強い。でも、どうしても私が自分でやらなければならない仕事があるの。少しでも領地を良くするために、王太子や保守派との駆け引きに負けられないから……」
夜風が吹いて、彼女の金色の髪を揺らす。その一瞬、彼女の横顔に月光が当たり、どこか儚げな美しさを放つ。レイナーは思わず胸が締めつけられ、「こんなにも綺麗だったか」と心の中でつぶやく。
(まるで手を伸ばせば触れられそうで、実際はどこまでも遠い。そんな気がする……)
一拍の沈黙の後、レイナーは思わず拳を握りしめ、「ああ、もう言わなきゃ」と心に決めたように口を開く。
「……パルメリア。僕はずっと、君の力になりたいと思ってきた。幼馴染として、ただそれだけだったはずなのに、いつからかそれ以上の気持ちになっているって気づいて……」
驚いたようにパルメリアが目を見開く。レイナーは苦笑しながら続ける。
「君が領地のために頑張っているのは誇らしいし、その背中を押したいとも思う。だけど……僕の心の奥では、それだけじゃ足りなくなってしまってる。もっとそばで支えたい。君の笑顔を、近くで見ていたい――」
言葉を紡ぐたび、彼の声は震えを帯びる。幼き日には互いを見て笑い合うだけで十分だったのに、今は想いが溢れて胸が苦しいほど切実だ。
パルメリアは書類を抱え直しながら、夜風にさらされるレイナーの瞳を見据える。彼の率直すぎる言葉が胸を打ち、一瞬ドキリとする自分を感じる。けれど、今はその気持ちに素直に応える余裕などない――彼女ははっきりとそのことを理解している。
薄闇のなか、パルメリアの声が少しかすれた調子で響く。
「レイナー……あなたがいなければ、今の私がここまで頑張ってこれなかったと思う。本当に感謝しているわ。でも、今はまだ――私にはこの領地を守ることが最優先なの。改革は半端なところで止められない。保守派に負けたくないし、どんな圧力がかかろうと、私が立ち止まったら領民たちが行き場を失うわ」
彼女の瞳には意志の強さとわずかな寂しさが混在している。レイナーはその表情を前にして何も言えず、一瞬だけ唇を噛む。
パルメリアはさらに言葉を選ぶように語り継ぐ。
「恋なんて考えている余裕、正直ないのよ。いつ王太子が再び動き出すか、あるいは保守派が改革を止めようと攻勢に出るかわからない。ここで足をすくわれたら、領民たちを裏切ることになる。それだけはできないわ」
聞きながら、レイナーは頭で理解しながらも心が苦しくなる。確かに、彼女が背負う責務は尋常ではない。そして彼女の言う通り、それを中途半端にして恋に溺れるような余裕はないのだろう。だけど――
レイナーは小さく息をつき、あらためて胸の奥から湧き出る想いを言葉にする。
「わかるよ、そんなこと。……だけど、僕は君を放っておけない。いつか君が本当に一息つける日が来るなら、その時まで僕は君を支え続けたい。それでもいいだろう?」
彼の瞳には真っ直ぐな決意が宿り、パルメリアはわずかに目を伏せる。それでも、彼の想いを否定するような言葉は口にはしない。小さく微笑みながら、書類を抱いた腕をきつく握りしめる。
その様子を見て、レイナーはかすかな希望を感じ取り、「それなら僕は、これからも君の力になる」とつぶやく。彼女の一挙手一投足を見守りたい、彼女の涙や笑顔を近くで感じたい――その思いを抱くことを、せめて許してほしいという願いでもあった。




