第18話 揺れる想い①
王太子ロデリックがコレット領を訪れてからというもの、パルメリアのまわりはますますにぎやかになり、さまざまな噂が広がっていた。
大胆な改革を推し進める公爵令嬢と王太子――その組み合わせは人々の好奇心を掻き立て、領地を越えて多くの者が「いったい何が起きているのか」「コレット令嬢は王太子殿下とどんな関係なのか」と憶測を呼んでいる。
しかし、そのなかで最も心をかき乱されていたのは、幼馴染のレイナー・ブラントだった。彼は今やただの友人ではなく、パルメリアに対する特別な感情を自覚しはじめている――だが、その想いは嬉しさよりも戸惑いや焦りを強く伴っていた。
夕刻の馬屋には、レイナーの低い独り言が静かに響いていた。愛馬の手入れをしているはずが、手はほとんど止まったまま、彼の視線は空へと向けられている。
(いつの間に、彼女はあんなにも遠い存在になってしまったんだ……)
かつて、レイナーにとってパルメリアは「隣り合って笑い合える相手」だった。幼い頃はコレット家の庭で花を摘んだり、小川で水遊びをしたりして、お互いを当たり前のように感じてきた。けれど、いつからだろう――彼女が未来に向かって歩み始める足取りが、レイナーの歩幅をはるかに上回っていくのを感じ始めたのは。
彼女は公爵令嬢として、領地を背負う覚悟を固め、農業改革や学舎の運営まで指揮する実行力を身につけた。レイナーもまた彼女を支えるべく動いてはいたが、最近のパルメリアは王太子ロデリックをはじめ、名だたる貴族や学者たちの注目を集めるようになり、いつか本当に手の届かない場所へ行ってしまうのではないか――そんな漠然とした恐れが拭えない。
馬屋の扉が軋む音がして、警備兵の一人がひょいと顔を出す。近頃強化された巡回の一環で、こうして屋敷内を見回っているのだろう。彼はレイナーを見ると、怪訝そうな顔をしながら声をかける。
「レイナーさん、こんなところにいたんですね。お嬢様をお探しかと思いましたが……いや、何かありましたか?」
レイナーは気を取り直して振り向き、かすかな微笑みをつくる。
「いや、大したことじゃない。ただ馬の様子を見ていただけさ。……近頃、パルメリアの周囲がにぎやかすぎて、僕なんかが出る幕がない気がして」
警備兵は笑いを含んだ声で応じる。
「そりゃあそうでしょう、王太子殿下が関わっているらしいですし、領内でも大騒ぎですよ。『ロデリック殿下とお嬢様が親しげに話していた』って噂があちこちに飛んでますからね」
その「王太子」という単語が、レイナーの胸にチクリと刺さる。まるで彼女が高嶺の花になってしまったような感覚。あるいは、もともとパルメリアという存在は「自分とは住む世界が違う公爵令嬢」だったのだろうか。
しかし、レイナーはそんな気持ちを悟られまいと、「そうか……まあ、領地のことを考えたら、王太子殿下に注目されるのも悪くない」と気丈に笑ってみせる。警備兵も「そうですね、わが領地にとってはいいことですよ」とうなずくと、そのまま巡回へ戻っていった。
一人きりになった馬屋で、レイナーは愛馬のたてがみをそっと撫でながら、自分の胸に巣くうモヤモヤを持て余すように息を吐く。
パルメリアと幼かった頃、一緒に花畑で遊んだり、草笛を吹いたりした記憶は鮮明だ。あの頃は、彼女と同じ目線で同じ景色を見て、未来はずっと一緒にあると信じて疑わなかった。それがいつから「公爵令嬢」としての距離感を感じるようになったのか――たぶん、パルメリアが改革の第一歩を踏み出した時からかもしれない。
(彼女は強くて、まっすぐな人だ。僕なんかが支えなくても、自分の力だけでどこまでも進んでいけるんじゃないか……)
そんな考えが浮かぶと、胸が締めつけられるように痛くなる。かつては仲の良い幼馴染として、何でも相談し合える関係だったのに、今やパルメリアを取り巻く世界があまりにも大きく変化している。
その変化を誇らしく思いつつ、同時に心の奥がひどく不安になる――それこそが「恋心」というものだとレイナーは半ば理解しながらも、どう扱えばいいのかわからない。
近頃、彼女の周囲には王太子だけでなく、クラリスという有能な学者やガブリエルという頼れる騎士が加わり、さらなる改革を加速させている。領民からは「お嬢様の笑顔に救われる」「彼女こそ本当の領主だ」と賞賛する声も多い。そんな光景を見るたびに、レイナーは彼女の「遠さ」を痛感し、焦りと切なさが入り混じった感情に苛まれるのだ。
(僕がパルメリアを好きなのは間違いない。昔から、好きという感情かどうかはわからなかったけど……いつの間にか、ただの幼馴染以上の気持ちになっていたんだ)
レイナーは自嘲気味に笑う。幼い頃から近くにいたはずなのに、いつからか「支えたい」だけでは足りなくなってしまった。彼女の努力を自分も応援してきたはずなのに、その先に待っているのが、今のような「手の届かない凛とした存在」となった姿だとは思わなかった。




