最終話 絶望を抱いて②
パルメリアは舞いながら、奥へ奥へと崩れかけた廊下を進む。かつては公爵家の秘密の書庫や隠し部屋があったという噂もある場所だが、今は壁が崩れ、そこから炎のような光が差し込むだけ。
まるでステージの暗幕の隙間から入る照明のように、赤い光が中途半端に彼女の踊る姿を照らしている。火の粉が渦巻き、床の破片が小さな音を立てて転がり、崩壊寸前の天井が時折低くきしむ。
だが、彼女は歩みを止めない。仲間たちの最後の顔が脳裏に浮かぶが、それすら霞んで消えていく。誰かの助けを呼ぶ声も、もう耳には届かない。すべてが灰色の闇へ沈んだ世界で、彼女だけが「舞踊のフィナーレ」を踊っているのだ。
「こんなにも……静か。前の人生での処刑は、怒声と血の匂いで満ちていたのに。いまはただ、灰色の風が私の裾を揺らすだけ……」
その口調はどこか甘美で、世界が滅びる寸前とは思えないほど柔らかな響きを宿している。狂おしいほどの安堵と絶望が混ざり合い、まるで宵闇に溶ける赤い花のような雰囲気だ。
瓦礫が崩れるたび、天井の亀裂から火の粉が舞い降り、ドレスの肩や腕ににじむように積もっては消える。まるで星屑の雨を浴びるプリマドンナのようであり、同時に死神の粉を受けているようでもある。
舞い続けるパルメリアの唇には、消え入りそうな笑みが留まっている。だが、それが完全なる狂気なのか、あるいはトラウマを乗り越えた安堵なのか、もはや判別はつかない。
火炎に包まれるのを待つ花嫁のような姿であり、前世で得た独裁者としての「最期」とは正反対の「狂わしい静けさ」でもある。
床がぐらりと揺れ、彼女は一瞬バランスを崩しかけるが、すぐにステップを踏み直し、儚げな旋回を続ける。まるでこの踊りを最後まで全うすることが彼女の宿命なのだと言わんばかりだ。
「ふふ……ありがとう。そして、さようなら……」
その小さな独白が、周囲を取り巻く赤黒い炎の息吹にかき消されるように溶けていく。あるいは、それは誰に向けた別れの言葉なのか――仲間たちか、王国か、あるいは前世の自分自身か。誰にも分からないし、彼女も答えを語る気はない。
前世での処刑が、その瞬間まで人々の怒りを背負っていたのに対し、今この廃墟には彼女と炎だけがいて、怒りも悲鳴も存在しない。破滅が遅れて訪れるのを待つばかりの、奇怪な空白の時間。
だからこそ、微笑みと舞踊が妙に映える。死が迫るほどに陶酔感を高めるかのように、彼女のステップは加速し、瞳は深い色をたたえている。
瓦礫を踏み越え、廊下の突き当たりへたどり着いた頃、天井から大きな破片が落下する。轟音とともに舞い散る灰が渦巻き、彼女のドレスを一瞬隠す。
が、その灰のカーテンの中を、パルメリアは優雅な回転で抜け出す。腕を伸ばし、ふわりと裾を翻し、まるで火の精霊を宥めるようにゆったりと踊りを続ける。その姿は、近づいてくる炎と完全に同調しているかのようだ。
遠くで楼閣が崩れる地響きが聞こえ、館の内部にも炎がじわじわと忍び寄っている。その気配を感じながら、彼女の舞は一層艶やかさを増している――あるいは、「最後のパッセージ」をなぞるように。
そこにはもう、悲嘆する気配はない。血を流す革命でもなく、怒号が響く処刑台でもなく、ただ「静かな焼失」を迎えるための舞台。それが唯一、彼女が与えられたフィナーレなのだ。
「……まあ、いいわ。ここで踊り切ってあげる。前の人生で見たあの血の海よりは、ずっと静かに終われるはず……ふふ、皮肉ね」
灰色の闇と赤い炎に交錯する空間を、小さく笑いながら横切る足音が、やがて崩れた柱の向こうへ姿を消す。残されたのは足跡と舞踊の余韻だけ。
だが、彼女はまだ終わっていない――ゆっくりと反転し、また一度裾を翻す。その一瞬、燃え盛る空が赤く彼女の顔を照らし、その唇には壊れた笑みがこぼれる。前世で処刑されたときよりも穏やかで、少しだけ幸せそうにさえ見える笑み……。
火の息吹がついに館の内部にも差し掛かりはじめ、黒い煙が廊下を舐めるように広がってきた。床がきしみ、天井からは次々に火の粉が落ちている。それでもパルメリアは動じない。まるでこの破滅を舞台装置に変えるかのように、ドレスのまま優雅に舞う。
髪はすっかり煤に汚れているが、彼女の瞳だけは妙に澄んでいる。まるで世界の全景を見透かすように、軽やかな動きで炎の合間をすり抜けながら、回転を続けている。既に廊下の木製の調度品が炎を帯び始め、床から煙が上がっているのが見えるのに、彼女は退こうとしない。
むしろ、一度かすかな笑みを浮かべて、最奥の大広間へ足を踏み入れる。そこは屋根が剥がれかけ、空が剥き出しになっている部分がある。火の粉が雪のように降り注ぎ、舞い踊る彼女に赤いスポットライトを当てるように照らしている。
(……これこそ、私の最後の舞踏ね。前世では怒声の中で終わったけれど、今回は燃え盛る世界に抱かれて眠るだけ――)
彼女の足が動くたび、焦げくさい風がドレスを揺らし、周囲からぱちぱちと木材の焼ける音が増えていく。そうして焼け崩れた梁がドサリと床を揺らし、火花が宙を散るが、パルメリアは回転をやめない。
瓦礫の破片が腕や脚に擦り傷を刻むが、痛みより陶酔が勝っているのか、一切怯むことなく踊り続ける。笑みはもはや、救いのない狂気そのもの。しかし、そこに宿る静寂は、前世の処刑よりも不気味に穏やかだ。
大きなきしみの音とともに、ついに広間の梁が崩壊を始める。赤黒い炎が天井を舐め、火の粉が滝のように降り注ぐ。その火が床を染め、壁を焼き、通路が次第に炎の回廊へ変わる。
パルメリアはそれを目にしながら、なおも回転をやめない。ドレスの端が火の粉を受け、じわじわと赤い焦げ色が広がるが、彼女はそれを振り払うように優雅に裾を捌き、微笑を保ち続ける。
前世ではあれほど血を浴びながら最期を迎えたが、今はこの「静かなる炎」に身を委ね、踊りを尽くす決意をしているのだ。
「ふふっ……こうして滅びへ溶け込むのも、悪くないわ。前の人生で見たあの血の海よりは、ずっと静かで優しい破滅だもの……」
言葉を紡ぐ息の中にかすかな咳が混じり、煙が肺を満たそうとしているのを感じても、彼女は笑みを緩めない。優雅な舞踏はなお続き、炎が広間の天井をほぼ支配してからも、いよいよフィナーレを迎えるように裾を翻す。
あたかも観客がいるかのように、右腕を差し出し、身を翻し、回転を重ねる姿は、「誰もいない舞台」の最後の踊り。それを支える床や柱が限界に達しつつあるのを本人も分かっているのに、笑って踊り続ける。狂気としか形容できない光景だ。




