第120話 燃え尽きる世界④
廊下の奥では、まだ屋敷に残るわずかな家臣が互いに火急の情報を交換している。「南の砦が落ちたらしい。近くの森が焼かれて人が逃げ場を失った」とか、「北の山中の村が、病と飢えで全滅したと聞く」など、どれも絵空事のように惨い話だ。
パルメリアは耳を澄ましても、ただ時折、苦笑するようにゆっくり瞬きをするだけ。かつて彼女は改革や革命を起こし、人々を救おうと必死だったこともある。今、その記憶はあまりにも鮮烈なトラウマとなり、再び行動する気力を完全に失わせている。
最初は「この国が崩壊するわけがない」と思っていた人々も、いまでは「完全に滅ぶかもしれない」と受け入れ始めている。各地から絶望の噂が殺到し、火柱が空を焦がす度に、誰もが冷えた覚悟を育む。そんな様を見ても、パルメリアは自らを動かすつもりがない。
もうすべてが燃え尽きる――という確信が、前世の革命における大失敗を上書きするように現れている。
夜風が一際強くなり、屋敷の周辺を舞う灰の量が増している。無数の火の粉が飛ばされているのだろう。いつ燃え移ってもおかしくないが、この瞬間はまだ静寂が続いている。まるで嵐の前の静けさか――そう感じる使用人もいる。
しかし、パルメリアは怖がる素振りを見せない。むしろ「いっそ今すぐ燃えればいい」とでも思っているようにすら見える。誰もが彼女を説得できず、屋敷もまもなく空になるかもしれない。
廊下の隅に崩れかけた花器が放置され、折れた絵画が壁に掛かったまま揺れている。使用人の足音が最後の一人分だけ聞こえ、やがてそれも遠ざかる。鍵の回る音がして、屋敷の扉が開閉される気配がし、ついに邸内は閑散としていく。
「ふふっ……これでいいの。誰もが去れば、誰も傷つかない」
パルメリアは窓枠に額を乗せ、外の暗い赤光をじっと見つめる。前世で使った血塗れの武器や独裁者の椅子が頭を過る。もう二度と振り返りたくない。結果として、国がもっと凄惨な終焉を迎えているが、自分が足掻けばさらに酷い流血を誘う――と信じているのだ。
この歪んだ論理がどれほど破滅的であろうと、彼女の恐怖と後悔はそれを支える強固な鎖になっている。
その時、遠くで猛烈な輝きが夜を割った。誰かが放った大爆発か、火薬庫の誘爆か――激しい閃光とともに、大地が重く鳴動する。王都方面にはさらに大きな火柱が立ち上り、数瞬のあいだまばゆいほどの赤い光が天を染めた。
まるで雷鳴のような衝撃が空気を裂き、ほどなくして屋敷に衝撃波が届き、壁をグラリと揺らす。ランプが倒れ、床を転がる。
使用人の一人が悲鳴を上げて倒れそうになるが、今やパルメリアを呼び止める者はいない。彼女は額の汗を拭おうともせず、ただ立ち尽くす。
「まるで大地そのものが炎の海へ沈んでいくみたい……。ここまで、徹底して世界が壊れゆくとは」
震える声が、かすかな嘲笑を含んでいる。王都の陥落がほぼ確定した以上、誰も彼女を救いには来ないし、彼女も救いを求める気などさらさらない。
この壮大な焼失こそが今の世界の姿。かつては革命で「ある程度の秩序」を残したものの、今回は跡形もなく全土が灰燼に帰すかもしれない――そんな破滅のスケールを彼女は重たく感じている。
前世の革命では、パルメリアが起こした破壊と粛清も凄まじかったとはいえ、まだ「理想を追い求める人々」が存在し、新しい国を建てようとする意志があった。しかし今は、それすら霞んで見えるほどの狂乱しか残っていない。
ある者は暴徒として笑いながら火を放ち、ある者はただ生き延びるために人を殺し、ある者は侵略軍と手を組んで自分の領地を守ろうとしている――いずれにしても、理想や希望などどこにも見られない。誰もが「焼け野原」を前に好き勝手に暴れているように思えるのだ。
「あの革命すら、まだ希望があったと言えるなんて……。なのに、今は本当に何もない。人々が足掻いても、ただ地獄が広がるだけ」
その比喩が、より一層パルメリアの心を苦く締め付ける。かつて彼女が血を流してまで夢見た国は実現しなかったが、それでも「理想」と呼べる光があった。しかし、今回の滅亡にはどんな光も存在しない。
「誰かの理想」さえない――それは革命と呼ぶにはあまりに空虚な破壊であり、パルメリアにとっては救いようのない無秩序という認識だ。だからこそ、もう行動する必要はないと確信してしまう。
外を見下ろすと、もう一度どこかで大きな爆発が起きたようで、観測できる限りの場所で火が揺れている。王都全体が巨大な薪の山でもあるかのように、赤い明滅を繰り返し、その度に空気が重く脈打つ。
家臣の一人が「お嬢様……もう、時間の問題です」と半泣きで歩み寄り、止めるように腕をつかむ。だが、パルメリアはそれを振りほどかず、ただ見つめ返すだけ。
次の瞬間、窓の向こうから強い風が吹き込み、一面に火の粉が溢れる。舞い散る小さな炎の欠片が、庭先からテラスへ飛び散り、使用人が悲鳴を上げて潰す。
「見て。私が逃げずにいるだけで、こんなにも火が近づいている。でも……結局は同じよ。家も国も、消し炭になるだけ。私が何をしたって、もう戻れないの」
パルメリアのつぶやきは、あまりにも諦めに染まっている。家臣はなお必死に「お嬢様……!」と叫ぶが、答えは得られないまま、泣きながら廊下の奥へ駆け去る。
もはや屋敷にいる数名の家臣や侍女も、限界に近い。次第に彼らは一人、また一人と退避し、あるいは気力を失って崩れ落ちていく。パルメリアが一切動かない以上、説得しても無駄だと思うしかないのだ。
こうして時間が過ぎるほどに、国全体で「燃え尽きる」までの最終段階が進行している気配が濃厚になっている。暴動や侵攻による破壊は、すでに王都を中心に大半の主要都市へ及び、商業地帯や集落が軒並み灰と化している。
更地になった場所では疫病や餓死が広がりつつあり、ある者は飢えた獣のように他者を襲い、ある者は神に祈るが、その祈りが届くことはない。
ごくわずかに組織だった軍や勢力が踏ん張っているという噂もあるが、それらが全国的な秩序を取り戻す見込みはない。どの勢力も局所的な支配を維持するのみで、根本的に「世界が焼け落ちる」状態を止められない。
この報せを受け取る家臣たちは「我々の国はこれで終わりなのか」と青ざめるが、パルメリアは悲嘆するでもなく、むしろ悟ったような沈黙を続ける。前世で「一国を革命した」経験が、現在の無力感を増幅しているのだ。
「革命」という形で国を変えようとしたが、失敗に終わった。その延長のように、今この世界は、もっと凄まじい滅亡を迎えようとしている。
こうなってしまった以上、彼女には何もできない――そういう諦念が深く根付いている。
(こんなにも悲惨な最期を、また目にしなければならないのね。もしかしたら、革命の頃からずっと定まっていた運命だったのかもしれない。私が行動してもしなくても、世界は燃え尽きる……)
パルメリアは階段を降り、屋敷の中央ホールへ立ち尽くす。かつては華やかな社交の舞台になった大理石の床が、いまは足音もまばらで、そこかしこに焦げた匂いが残り、装飾の大半が撤去されている。
周囲の空間が妙に広く感じられ、だれもいない空気に身を晒すような錯覚が起こる。耳に聞こえるのは、屋外で弾ける爆音と、不定期に訪れる遠雷のような震動だけ。何者かの絶叫がかすかに響いても、その向こうにいる人の姿はもう見えない。
(私は、なんて無力なんだろう。前世でさえ、独裁者として動いた結果があれだった。今度は動かなかった結果がこれ……。いつでも、誰かが泣いて死んでいくのね)
心の中でつぶやくが、もう悲嘆する気力さえない。
故に、ここで燃え尽きる世界を傍観することが、彼女にとって唯一の選択肢になっている。ひとたび足掻けば、さらなる地獄を呼ぶと信じているのだから。
すると、ホールの隅にたたずんでいた家令が「お嬢様……最後まで残りますか?」と震えた声で尋ねる。パルメリアは軽く首を横に振り、「私の心配は不要よ。あなたも逃げたいなら逃げて」と返す。それを受け、家令は崩れ落ちたように泣き崩れ、結局は言葉を失って走り去った。
こうして屋敷に残る人間はほとんどいなくなる。わずかな者が使用人部屋で身を縮めているが、皆、いつ炎が到達するかと怯えるのみだろう。




