第103話 空虚な再会②
冷ややかな沈黙の中で、レイナーはかすかに手を動かし、まるで何かを言いかけるかのように口を開いた。しかし、パルメリアの鋭い眼差しが一瞬だけそれを制した。彼女から発せられる「もうこれ以上踏み込まないで」という無言の圧力に、彼は言葉を飲み込んでしまう。
「わかった……。じゃあ、ゆっくり休むといいよ。僕たちはいつでも力になるから、必要があったら言ってくれ。無理だけはしないで」
レイナーはそう言うと、一歩引いて深い息をついた。彼の声には心からパルメリアを案じる響きが混じっていたが、パルメリアの顔にかすかな変化はない。ただ、彼女の瞳が一度だけわずかに陰ったように見えた。
「ええ、ありがとう……。本当に大したことはないから、気にしなくていいの」
その返し方も、あまりに淡白だった。ほんの少しでも笑みが浮かべば救いになるのかもしれないが、そうはならない。レイナーが「うん……」と困惑したようにうなずき、一瞬視線を落とす。彼女の変化を直視できないかのようにも見えた。
隣にいた別の友人が「パルメリア、また落ち着いたら私たちにも顔を見せてね?」と、なんとか場を繋ぐために声をかける。だが、パルメリアは「……ええ、そうするわ」と応じるだけで、やはり笑顔らしきものは微塵も見せない。
(昔の私なら、ここで軽やかに話を転がして、みんなを笑わせていたかもしれない。でももう、そんな気力どころか、同じ道を歩むかもしれない恐怖ばかりがあって……ごめんなさい)
心の中で自分にそうつぶやき、パルメリアはレイナーたちの表情を見ようともせずにうつむく。扉の近くで使用人が気まずそうに立っており、どうやら長居させても彼女が気力を取り戻すことはないと察しているのかもしれない。
しばし沈黙が続いたあと、レイナーたちは「それじゃ、また改めて」「お大事にね」と言いながら、応接室を後にする。去り際にレイナーが「……ゆっくり休んで」と小さく付け加えるが、パルメリアは視線を合わせようとしないまま「ええ、ありがとう」と返すに留まった。
廊下へ出た彼らはすぐに声をひそめる。誰もが戸惑っていた。
「やっぱり、様子がおかしいわ……。まるで別人みたい」
「どうして彼女、あんなにも冷たく……。何か悩みがあるんじゃないか?」
レイナーは唇を引き結んで、首を横に振る。「僕にも分からない。だけど……前はあんなじゃなかったはずだ」と、静かにつぶやく。その声音には、明らかな失望と不安がにじんでいる。
「前はもっと笑っていたよ。僕が冗談を言えば、すぐに笑い返してくれて……。それが今は、あんな顔で……」
レイナーが苦々しい表情で振り返ると、他の友人たちも似たような思いを抱えているらしく、互いに目を見合わせ、言葉を失った。彼らにとっては、あの明るいパルメリアが突然冷めきってしまったことが理解しがたいのだ。
そんな会話を廊下で交わしながら、レイナーたちは公爵家の使用人に案内されて屋敷をあとにする。去り際、レイナーは一度だけ背後を振り返るが、そこにはもうパルメリアの姿はない。彼は重い足取りで門をくぐっていった。
一方、応接室に残されたパルメリアは、まるで人生からあらゆる感情を削ぎ落としたかのように淡々とソファへ腰を下ろす。かつてなら心踊ったはずの空間が、今ではどこまでも息苦しいだけだ。
彼女はソファの背にもたれかかり、あのレイナーの表情を思い出し、かすかに苦いものを噛みしめたように目を閉じる。友人たちと語らった「前の人生」の記憶が、また断片的に脳裏をよぎるからだ。レイナーと一緒に夜通し計画を練ったこと、笑い合って次の段取りを考えたこと、困ったことがあれば相談し合ったこと……。
(……ごめんなさい、レイナー。あなたの優しさに応えられない。どうせ私が動けば、同じ惨劇を繰り返すだけなの。もしあのときのように私が間違った方向へ進んでしまったら、あなたまで巻き込んでしまう……)
こうした思いが、彼女の心を締めつける。同時に、言葉にできない苛立ちと焦燥が湧き上がり、身じろぎさえしたくなくなる。レイナーの優しさこそが、彼女にとって今もっとも痛みを与える存在なのだ。前の人生で、その優しさを何度も踏みにじり、彼の想いを無視しながら独裁へ突き進んだのは、ほかでもない自分――パルメリア自身だったのだから。
応接室の壁には、貴族趣味の高そうな絵が飾られ、窓からは朝の光が斜めに差し込んでいる。かつてはここで友人たちと軽やかにお茶を楽しみ、和やかに談笑するのが日常だった。レイナーが雑談を面白おかしく盛り上げ、彼女がそれに乗っかって話を弾ませる姿を、使用人たちが微笑ましく見守っていた光景――そんな思い出が痛いほど脳裏を刺す。
いま、同じ場所にいるのに、感じるのは息苦しさだけ。扉の向こうからは、先ほど去っていくレイナーの後ろ姿を見守る使用人たちの足音が聞こえ、しばらくして静寂が戻ってくる。まるで、かつてのにぎわいがすべて失せ、彼女だけが取り残されているような空気だ。
ソファに背を預けながら、パルメリアは自嘲気味に薄く笑みをこぼす。それは笑いというより、苦痛から逃れるための形だけの歪な表情だ。
(結局、あのときの私が招いた破滅を、あなたたちは何も知らない。前の人生のことだと言っても、誰も理解できるはずもない。話したところで、きっと呆れるか、嘘だと思われるか……)
思考は次々に負の連鎖を生み、彼女を縛り付ける。今のレイナーにとっては、ただの「体調が悪いパルメリア」を心配しているだけなのだろう。あの頃のパルメリアを知る彼でさえ、彼女が処刑台まで上り詰めた道のりを想像することはできない。前世の記憶を共有していない以上、仕方のないことだ。
ふと、ソファのクッションに手を置く。指先に触れるしっとりとした手触りが、痛々しく感じられるほどの静寂を増幅させる。外の天気は良いだろうに、この部屋には嫌な重みしか漂っていない。レイナーも、ほかの友人たちも、何とかして彼女を笑わせようと気遣ってくれるはずだが、今の彼女にはその優しさに向き合う気力がなかった。
「……本当に、ごめんなさい、レイナー」
誰に届くわけでもなく、小さな声が応接室に落ちる。謝罪の言葉とはいえ、彼女の表情は曇ったまま。いまのパルメリアにとっては、その一言すら辛い。今更どれだけ謝ったところで、過去の結末は何も変わらないという実感があるからだ。
長い沈黙が応接室を支配する。外からは、ときおり使用人の足音や廊下を通る誰かの話し声が聞こえるが、この部屋の中には広がらない。閉ざされた空気が、パルメリアと共に漂っているようだった。
やがて、扉の近くで控えていた侍女が、小さくノックの音を立てる。彼女が心配しているのか、「パルメリア様、失礼いたします……」と声をかけるが、パルメリアは「大丈夫。放っておいてちょうだい」と小さな声で応じるのみ。侍女もそれ以上は何も言わず、足音を消して退いていった。
扉が再び閉じられ、今度こそ完全な静寂が戻ってくる。パルメリアはぎこちなく立ち上がり、応接室の中央に備え付けられたテーブルの上をちらりと見る。そこには、彼女が来る前に使用人が用意していただろう茶器や菓子が並んでいるが、一切手つかずのまま。さっきまでレイナーたちがここにいたのに、ほんの一言も食事の話をすることなく、彼らは帰って行ってしまった。
心のどこかで「こんな形で終わりたくはなかった」と思っている自分を感じる。しかし同時に、それをどうにかする気力が湧かない。もう一度同じ道を進むかもしれない恐怖、そして自分が独裁の道を歩んだ記憶への嫌悪――それらが渦巻き、結局何も動けないのだ。
(どうせ、あの道を歩んでも最後は血みどろの破滅だった。ならば、私が今できる最善は、もう一度あんな道を進まないこと……レイナーを巻き込まないこと。それだけ)
自分にそう言い聞かせながらも、パルメリアの胸にはひどい寂寥感が染みわたる。かつて彼が見せてくれた眩しい笑顔が、今は苦痛に変わってしまった。あの優しさや無邪気さを、また裏切るくらいなら、最初から距離を置いてしまいたい。
ソファの脇にあるサイドテーブルには、レイナーが私のために持ってきてくれた焼き菓子が残されている。かつてなら「パルメリアに食べさせたい」と言って彼がわざわざ手配していた品だが、今は誰も手を付けていない。彼女はその包みを見つめ、ぎゅっと唇を結ぶ。こんな小さなものにすら、胸がつかえるような痛みを感じるのは、自分が彼らを見捨てるような態度を取っているとわかっているからだろう。
ふと、レイナーの言葉が思い出される。「前はもっと笑っていた」というような回想。過去のパルメリアは確かに朗らかだった。彼と共に理想を語り合い、城下町を見ては「活気を取り戻せそうだね」と笑い合い、貴族社会の改革にも貪欲に手を伸ばそうとしていた。しかし、前の人生の結末を知る今の彼女には、その明るさを再び取り戻す勇気がない。




