第102話 過去の残像②
やがて、パルメリアは重い体を引きずるようにしてベッドから立ち上がり、部屋の中央に置かれた椅子へと移動する。ほんの数歩の距離が、とてつもなく遠く感じられる。ふと、ドレッサーに目をやれば、そこにはかつて愛用していた小物入れやブラシが整然と置かれていた。以前は朝の身支度をここで行い、優雅な時間を楽しんでいたのが嘘のようだ。
そのドレッサーの角を、どこか遠い目で見つめる。少しのきっかけでも、彼女の頭には断片的な過去がちらつく。例えば、革命の早い段階で仲間たちと誓い合った夜のこと。みんなで理想を語り、笑い合ったあの日々が、あまりにも輝いていた。だが、その先に彼女が築いたのは、「粛清」という言葉が日常化する地獄だった。
(あの時の私には、確かに優しさもあったはずなのに、いつの間にか憎しみと恐怖の坩堝を作っていた。私が血を見て躊躇しなかったから、こんな結果になった……)
短いフラッシュバックが、仲間の瞳にあった期待から、いつしか畏怖へと変わるイメージを呼び起こす。パルメリアが情け容赦なく処分命令を下す場面が、自身の頭の中で鮮明に映っては消える。それはもはや悪夢のようでもあるが、現実に起こったことなのだ。
深いため息をつき、彼女は椅子にもたれかかる。かすかなきしみの音が、部屋の静寂を切り裂くように響く。再び眉間に皺を寄せ、目を伏せた。頭の中では、少し前までの記憶――というより、前世とでも言うべき歴史――が断続的に蘇り、呼吸を乱そうとする。
(私が何もしない理由。そのひとつは、もう自分の手で血を流したくないってこと。誰も殺したくないのに、どうして革命なんて起こしたのかしら……)
無論、それが必要だと信じていた時期があった。王政を打ち倒し、多くの人を救えると誇りを抱いていた。しかし結果的に、権力の旨味に取り込まれ、強大な力を振りかざす独裁者として君臨してしまった。その現実を想起するたび、彼女の胸は冷えきったものになる。
視線を上げると、カーテンの隙間からわずかに風が入り、書類の端を揺らしているのが見えた。そこには領地の改革案が綴られたものも含まれているかもしれない。しかし、パルメリアの指は一切伸びない。彼女は自分が動いてはいけないと、本能的に感じているからだ。
遠く廊下のほうで使用人たちの足音が通り過ぎる。彼女を案じる声がときどき聞こえては消えるが、パルメリアにはそれに応じる元気も意欲もなかった。部屋に一人閉じこもり、静かに過去を噛みしめながら苦しむことしかできない状態なのだ。
何度も心の中に湧き上がっては引き裂かれる思考。そこにあるのは、どうしようもない絶望と、冷めきった諦観だけ。彼女はこのまま部屋の空気と同化するかのように、じっと床の一点を見つめていた。
「自分の手で再び血を流すくらいなら……私は、何もしない方がいい」
ポツリと零れた言葉は、先ほど頭をかすめた台詞をもう一度復唱するようなものだった。静かな部屋で、その声は自分自身を納得させるための呪文のように響く。聞く者は誰もいないが、彼女にはそれがひとつの確固たる決意の言葉だった。
もちろん、その決意が本当に最善かどうかなど分からない。だが、革命の先にあった惨劇を繰り返すことだけは、彼女には到底耐えられないのだ。だからこそ、何もしないことがもっとも安全だと感じてしまう。
周囲からすれば、ほんの少し前まで、彼女は同じ屋敷で日々の務めをこなしていたように見えるかもしれない。しかし、パルメリアからすれば、その「前世」の果ては誰よりも残酷だった。だからこそ、もう何も変える気力を持てないまま、自室に閉じこもり、暗い記憶の断片に苛まれ続けているのである。
――こうして、パルメリアは過去の残像に浸りながら自らを縛り付けている。あの粛清と権力争い、裏切りと血の記憶が、断片的なフラッシュバックとして彼女の思考を乱し続けるのだ。まだ詳細を語る段には至らないが、それらのシルエットだけでも彼女の心を重く抑圧するには十分だった。
遠くで鐘の音がかすかに鳴った。時刻を知らせるものだろうか。それに合わせるように、屋敷のどこかで使用人の動きが少しだけ慌ただしくなる気配がある。だが、パルメリアはそれに目を向けようともしない。意識を自らの中に沈め、過去と現実のはざまで苦悶する。
(……同じ道をたどるくらいなら、何もせずに朽ちていくほうがまだまし、そう思うなんて……)
その独白は悲痛にも聞こえるし、もはや哀れみの域にも達している。かつて人々を牽引する意志と力を持っていたはずの少女が、今では小さな一室の中でひっそりと過去に怯え、誰にも救いを求めない。あるのは「何もしない」という意志だけ。
窓の外には、それでも陽が高くなりつつあるようだ。光の角度が変わり、部屋の床を照らす形が少しずつずれていくが、パルメリアはその変化にも気づかない。椅子にもたれかかって閉じた瞼の裏に浮かぶのは、革命の破片――粛清の嵐や、独裁者と呼ばれた自分の姿。
その残像はいつまで経っても消えてくれない。変わろうと努めるより先に、「こうすればまた同じ過ちを繰り返す」という予感が脳裏を駆け巡り、彼女を動けなくさせるのだ。実際、前の人生でやったことを思い返せば、そんな警戒は当然かもしれない。
時間の流れがどこまでも緩慢に感じられるなか、パルメリアは重々しく立ち上がる。ゆっくりと息を吐き、少しだけカーテンを引くと、差し込む日差しが部屋の中を照らして空気を温めていく。その光景を静かに見下ろす彼女の瞳には、やはり一点の希望も映っていない。
ドレッサーの上に、昔お気に入りだった香水の小瓶が置いてあるのが見える。小さな宝石のように光を反射するその瓶は、かつての彼女の「少女らしさ」を象徴するアイテムだった。しかし、今の彼女にはそれを手に取ろうという意欲さえ失われていた。
――そうして、パルメリアは自室の奥深くに身を沈める。心のどこかで、部屋の外で動き回る使用人たちの音を聞きながらも、出て行く気がまったく起こらない。かえって、廊下の向こうから漏れ来る気配に怯えるかのように、一歩も動こうとしないのだ。
もう一度、あの血塗れの結末を味わうくらいなら、いっそ何もしないまま終わってしまいたい。かつて革命と権力のはざまで狂っていった自分を思い返すたびに、そう強く思わずにはいられない。
いまはまだ、その苦悩を詳しく口にするつもりはない。心のどこかが、「こんな事を言っても誰にも理解されない」と冷ややかに嘲笑している。だから、あえて沈黙に沈み、自分を閉じ込める道を選ぶ。隠された苦悩は、彼女の中で渦を巻きながら、小さな悲鳴としてこだまするだけだ。
――こうして時間が緩やかに過ぎていくなか、外の世界は何事もなかったかのように動いている。騒ぎを気にかける者もなく、公爵家では日常の業務が続き、書類が行き来し、使用人たちがきびきびと動く。
しかし、パルメリアは部屋にこもったまま、かつての粛清や血の記憶に苛まれ続けている。その火種がどんな形で再燃するか――まだ誰にも分からない。少なくとも彼女自身は、もう二度と火を起こすまいと祈るように望んでいる。
(私はもう、誰も救えないし、私自身が救われることもない。こんな世界のために、また血を流す気なんて全然起きない……)
その思いが、ベッドサイドで小さく肩を寄せ合うように息を殺す彼女の胸に、鈍い痛みを生み出す。これが「過去の残像」に苛まれるということなのかもしれない。
部屋を満たす静寂のなかで、パルメリアは苦しみをのみ込みながら、今日という一日をただやり過ごすのだった。
すべてを拒絶し、心を固く閉ざし続ける。
あの粛清を繰り返すくらいなら、何もしない――。
その冷たい孤独だけが、今の彼女を辛うじて支えているかのようだった。




