第101話 繰り返される運命①
パルメリアが鏡台の前で沈黙したまま、どれほどの時間が経過したのか、彼女自身にも定かではなかった。閉ざされた思考の奥では、先刻まで見せつけられた死の光景がかすかに脈を打ち続けている。彼女の頭は今もどこか遠くにあり、この部屋や光景を、まるで他人事のように眺めているかのようだ。
やがて、扉を控えめにノックする音が聞こえる。遠慮がちな気配が扉の向こうにたたずみ、まるでこちらの心を窺うかのように小さく息をひそめているようだった。そして、しとやかな呼びかけが廊下の静寂を揺らす。
「お嬢様……ご体調はいかがでしょうか? 急に倒れられたと聞いて、皆とても心配しておりますが……大丈夫でしょうか?」
その声には安堵と気遣いがにじみ出ている。いつもならパルメリアも、多少なりとも感謝の念を返すだろう。けれど、今の彼女は、ただ鏡台の前で虚ろな瞳を伏せたまま――そこに映る自分を直視することもできずにいる。ほんの少し唇をかみしめた後、彼女は静かに息をついた。
胸の奥にのしかかるのは、先ほどまでの処刑台を思い起こさせるような、重く沈んだ感覚だった。首を吊られたあの衝撃と、それに伴う絶望が、今もこの体から離れない。思えば、あの死がすべての終わりだったはず。それなのに、どうして――そんな疑問ばかりが膨れ上がり、答えのないまま彼女を苦しめている。
(結局、また同じ人生を歩まされるのね。それも、あの破滅を経験した後で……。何をどうすればいいのか、もはや何も分からないわ)
自問自答するパルメリアの脳裏には、いま自分が立たされている「やり直し」という残酷な事実が重くのしかかる。これまで自分が積み重ねてきたものが無に帰され、今また同じ時を繰り返す。その嫌悪と諦めが、彼女の思考を鈍く絡め取っていた。
部屋の外からの呼びかけに答えずいると、しばらく待つような気配があったが、やがて相手は気まずそうに立ち去っていく。足音が廊下に溶けて消えると、パルメリアはようやく静かに立ち上がった。鼓動は少しずつ早まっているように感じられるが、それもまるで遠い場所で起きていることのようだ。
(私がどんな顔をしても、結局は何も変わらない。誰も、本当の私を知らないのだから……)
その思いを胸に抱いたまま、パルメリアはゆっくりと扉へ向かった。ノブに手をかける動作だけで、体の奥底に沈む重苦しさが視界をわずかに歪ませる。まるで、生きている実感を突きつけられるたびに、逃れられない宿命を思い出させられるようだった。
扉を開けると、案の定、侍女が申し訳なさそうな顔をして頭を下げている。その奥には、他の使用人たちが不安げにこちらをうかがっていた。公爵家の娘が突然倒れたのだ。それなりの騒ぎになるのは当たり前だろう。だが、パルメリアは今、そのどれもが遠い出来事のように感じられてならなかった。
「……ありがとう。もう大丈夫よ。ちょっとめまいがしただけだから」
彼女は形ばかりの微笑みをつくる。けれど、瞳にはどこか冷めた色が宿り、心ここにあらずといった調子が否めない。侍女はホッとしたように息をついたものの、パルメリアの表情がどこか硬いことに気づいたのか、目を伏せて「……かしこまりました」と小さく答えた。
さらに奥の廊下からは、足早に父である公爵が現れる。使用人たちの間をぬうようにして、彼は娘の安否を確かめるように近づいてきた。周囲の者たちも安堵の気配を漂わせるが、その視線はパルメリアの沈んだ様子をしっかりと捉えている。
「パルメリア……本当に大丈夫なのか? 突然倒れたと聞いて心配したぞ。領地の仕事で無理をしているのではないだろうな?」
公爵は険しい顔をして問いかける。その声には、娘への深い思いやりがこもっていた。通常なら、パルメリアももう少し素直な気持ちを示すところだろう。だが、今の彼女はそれを受け止める余裕すら持ち合わせていない。
パルメリアは一瞬だけ公爵と視線を交わす。そして、形だけ浅くうなずくと、すぐにかすかな息を吐き、視線を逸らした。
「……貧血を起こしただけよ。もう大丈夫だから、気にしないで」
それ以上何も言えず、公爵は「そうか……」とだけつぶやいて後ろへ下がる。娘の表情を探るように見つめていたが、彼女がわずかに首を振るだけなので、それ以上は問い詰められないのだろう。短い沈黙が二人の間に落ちる。公爵は気まずそうに視線を床へ落とすと、使用人たちに遠慮がちな合図を送り、足音を残して廊下の奥へ去っていった。
周囲の使用人たちは、次々に「少しでも何か召し上がってはいかがですか」「ソファでお休みになりますか」と言葉をかけてくる。彼らなりの気遣いだ。しかし、パルメリアの心はまるで厚い膜の奥に閉じ込められているようで、あまりにも遠い。形だけの感謝を述べつつも、表情に生気はない。
(まさか、この時期に戻ってくるなんて。領地の改革案を練って、ようやく道筋が見えた頃だったのに……。前の人生では、あの先で何が起きたのか、私は知っているのに。なのに、また同じ道を繰り返させるの?)
その思考を抱くたび、胸が強くきしむ。死の瞬間をはっきりと感じたというのに、今こうして公爵家の屋敷へ戻されている現実。これは救いではなく、むしろ呪いのようだとすら思える。
使用人のひとりが「お嬢様、お食事をお部屋に運びましょうか?」と尋ねるが、彼女は小さく首を振り、「いえ、ダイニングに行くわ」と短く返す。何をしていても胸の重苦しさが晴れるわけではないが、同じ場所にとどまっている気にもなれない。
明るい朝日が差し込む廊下を、彼女は使用人を伴いながら淡々と歩いていく。以前なら、この時間には笑顔で挨拶を交わし、使用人たちと言葉を交わしていたはずだが、今はまるで感情が抜け落ちている。長いドレスの裾が床を軽く滑る音だけが、廊下に響いた。
やがて着いたダイニングは、柔らかな陽射しに包まれ、窓からの光が床をきらめかせていた。テーブルにはスープやパン、果物などが並べられているが、それらの彩りすらパルメリアの目にはほとんど映らない。ほんの数日前までなら、小さなことでも喜びや意欲を見せていたかもしれないのに。
椅子に腰を下ろし、手を伸ばしてスプーンを握りかけたが、その動きは途中で止まってしまう。喉が乾いているのかさえも、分からない。それほどまでに、彼女の心は沈んでいるのだ。
(前の人生では、ここから全力で領地改革に力を注いで……。だけど、最終的にはあの国全体を巻き込み、粛清と血の嵐をもたらした。処刑台で終わったはずの私に、また同じ道をたどれというの……?)
記憶の奥に蘇るのは、血に染まった街と、裏切りと殺意が渦巻く宮廷の光景。そんな闇をたどった末の処刑が、なぜ繰り返されねばならないのか。考えるほどに深い嫌悪と諦めが胸を満たしていく。
結局、スプーンを握ったまま動けずにいる彼女を心配してか、侍女が「パルメリア様、ご体調が優れないようでしたら、どうぞ遠慮なくお呼びくださいませ」と、やや慎重に声をかけてくる。その優しさは本物であるはずなのに、パルメリアにはその気遣いが重荷にしか感じられない。
視線をテーブルの端へ移すと、そこには領地の会議資料がまとめられた書類の束が置かれていた。何度も読み返し、改善の糸口を探ろうとしていた記憶がある。日付を確かめると、あまりに懐かしい――同時に、歯車が逆回転しているかのような悪い冗談を思わせた。
(本当に戻ってきてしまったのね。あの処刑台で終わっていたはずなのに……再び、初期の段階からやり直し? だけど、私はもう先が見えているの。どう足掻いても、結末はきっとあの処刑台……)
重い吐息とともに、彼女はその資料に手を伸ばさぬまま、そっとテーブルから押しやる。過去に燃えていたはずの改革への情熱は、今や灰になったとでも言わんばかりだ。周囲の使用人たちは心配そうに彼女を伺っているが、パルメリアは食事に手をつけることもなく、うつむきがちにじっとしている。
(もし、また同じ悲劇が繰り返されるのだとしたら……私は、このまま何もしないほうがいいのかもしれない。前の私が動いた結果、どれだけの血が流れたか、嫌というほど知っているもの)
かつての自分は、改革という名目であらゆるものを壊し、手に入れた権力に溺れてしまった。それを振り返れば、もはや同じ轍を踏みたくはない。とはいえ、この先何をすればいいのかも分からない。まるで道が途切れ、行き止まりを示す標識に囲まれているようだった。
ふいに「お嬢様、ご気分が優れないようでしたら、ゆっくりお休みになって……」と、別の侍女が優しく勧めてくる。けれどパルメリアは「ええ、そうね……」と短く答えるだけで、その顔にはどこにも生気がない。
使用人たちは目を見合わせる。彼女を手助けしたいのに、当の本人が心を閉ざしているため、どうすればいいか分からないのだ。もしかすると、最近の激務が体調不良を招いたのではないかと思っているのだろうが、真相はそれだけではないと、うすうす感じ取っているのかもしれない。
父の公爵も、廊下を行き来する間に様子を気にしている。つい先ほど、娘が倒れたと聞いて焦ったのだろう。彼女がダイニングへ来たことを知ると、少し離れた場所からパルメリアの姿を確認していたが、その沈鬱な雰囲気に声をかけるタイミングを逃しているようだった。
(この人たちは、本当に私を心配してくれているのよね。でも、何も知らない。私が「処刑」されたことも、ここで新しい朝を迎えることにどれほどの嫌悪を感じているかも……)
パルメリアの胸の内に疼くのは孤独感であり、同時に周囲への申し訳なさでもある。気遣いに応えられない自分を自覚しているからこそ、その優しさが痛々しく胸を打つ。だが、その痛みさえ、彼女には重荷にしかならない。




