第100話 二度目の目覚め②
ずっと鏡に向かっていた身体をようやく椅子ごと回転させ、私は部屋の中央へと視線をやる。かつては「この部屋は私にとって安らぎの場所だ」と感じていたときもあったが、今はむしろ窒息しそうな圧迫感しか覚えない。
先ほどまで見えなかった窓の向こうには、鮮やかな青空が広がっているのだろうか。カーテンから差し込む光は鮮明で、今日がとても良い天気であることを教えてくれている。けれど、そんな当たり前の事実すら私を憂鬱にさせる。まるで「さあ、新しい一日だよ」と言われても、その一日を喜べる理由など何もない。
体をほんの少し動かすだけでも意識が重い。自分の存在が急に煩わしく思えてくる。まるで処刑台で死にきれなかった身体に、私の意思が取り残されているようだ。
頭の中にはもう、「あのとき死んでいればよかった」という言葉が何度も何度も渦を巻く。死を選ぶつもりなどなかったはずだ。でも結局、私の革命は破綻し、裏切りと血の果てに処刑された。あれは「やむを得ない末路」だと心のどこかで納得していたのに、この仕打ちは何なのだろう。
どうして生きているのか。この疑問に形ある答えが出せない以上、私は宙ぶらりんの状態で、再び始まってしまった世界を眺めるしかない。
それでも先ほどの侍女の声は、確かに優しさを含んでいた。私のためを思ってこそ、何度も「お嬢様」と声をかけてくれたのだ。昔の私なら、その気遣いにほんの少し笑みを返し、「大丈夫よ」と答えただろう。けれど今はそれをする余裕すらない。すべてが遠ざかって見える。
(また、この世界が始まるのね。でも、私は……もう何もしたくない)
この言葉が頭の中を支配し、それ以外の思考を拒んでしまう。考えようとすればするほど、過去の血と痛み、そして裏切りしか思い浮かばないから。そこに自分の力で前向きな答えを見出せる気がしない。
部屋の外から、今度は別の使用人の足音が近づいたのだろうか。やや急いだ気配がする。先ほどノックした侍女が、誰かに状況を伝えている声がかすかに聞こえる。「お嬢様の様子が変だ」とでも言っているのかもしれない。その言葉に返すように、小さなため息が合わさる気配。
私はそれらのかすかな声を、耳を澄ますともなく受け取っている。心配してくれるのがわかるからこそ、申し訳なさが込み上げる。けれど、それが私を動かすエネルギーには繋がらない。眠りたいのか、起きていたいのかさえ自分で分からないのだ。
鏡台の前で足を止めたまま、ちらりと鏡の奥に映る自分と目が合う。そこにはさっきと変わらぬ、死んだような瞳をした少女がいる。確かに外見は以前の私と同じだが、内面はまるで廃墟同然。どれほど優しい光があっても、その心はもう動かない。
すると、部屋の外で軽くノック音がした。先ほどより強く、そして少し急いた気配。ドア越しに控えめな声が届く。
「お嬢様……ご体調はいかがでしょうか? 急に倒れられたと聞いて、皆とても心配しておりますが……大丈夫でしょうか?」
声からうかがえるのは、屋敷の人々の本気の心配だろう。愛嬌のある人たちだったはずだ。ほんの少し前までは、私も彼らを信頼し、一緒に笑っていただろう。でも、いまこの瞬間、その優しさすら重荷に思える。
喉が引きつるように痛み、返答を絞り出せない。先ほどからさほど時間が経ったわけでもないはずなのに、私の気力はすり減る一方だ。宙に浮かぶような頭で「このままでは誰にも顔を合わせられない」と感じながらも、どうしようもなく部屋の中にうずくまっていたい思いが勝っている。
(もう……何も話したくない。私は、ここで終わったはずなのに……どうしてまだ続くの?)
そんな問いを抱えたまま、私はただ黙り込む。扉の向こうの使用人も、私が答えないことに戸惑っている気配を感じる。足音がしばらくその場を離れずに留まっていたが、やがて気まずそうに遠のいていった。
静寂が戻ってくると、部屋の中の空気が息苦しく感じられた。外は穏やかな朝だというのに、私の心は深い穴に落ちたまま。もはや何をする気も起きず、ただ時間が過ぎるのを茫然と待ち続けるしかない。
(……また、この世界が始まるのね。でも、私は……もう何をすればいいのかもわからないし、何もしたくない)
自室の壁にかけられた花模様のタペストリーが、ゆるやかにたなびいている。かすかな風がカーテンを揺らし、そこから漏れる日差しが床に模様を描いているが、それがただ空虚に見える。私の瞳には、もはや眩しさと痛みしか感じられない。
すべてが重く、虚しい。何より、この部屋がいまの私には「いたたまれない」場所となってしまった。かつてここで何を思い、どう行動していたのか。その記憶ですら、私には遠い昔のことのように感じられる。
廊下では使用人たちが何やら話し合っているらしく、小声でひそひそと私の安否を気遣う声がかすかに耳に入る。扉のすぐ外にいて、再度声をかけようか迷っているのだろう。だが私にできることは、やはり何もない。この部屋の閉ざされた静寂に身を浸すことが唯一の安息か、あるいは苦痛の先延ばしか――それすらも分からないが。
こうして、使用人が私に声をかけてくるのを何度も聞きながら、私は一切返事をしないまま時間をやり過ごしていた。先ほど、わずかに扉に耳を寄せた侍女の気配さえ、今は消えている。彼らもどうすればいいのか分からず、離れていったのだろうか。
鏡の前に座ったままの私と、静まり返った扉――その間には、誰にも通じない空気がただ横たわっている。確かに私は生きているのだろうが、それが何のためなのか、どう生かすのか、何も思いつかない。死の淵から不本意に引き戻されただけの私には、この朝の光さえ残酷だ。
部屋の中に漂うのは、寝起きの温かさというより、押しつぶされるような息苦しさ。胸が重く、目を閉じてしまいたいと思うが、瞼を閉じると処刑台の悪夢がありありと蘇ってくる。だからといって、開けば今の現実という空虚が広がっている。それらを天秤にかける気力さえ、もう残っていない。
私がじっと息をひそめている間にも、世界はいつものように回っているはずだ。使用人は仕事をこなし、父である公爵も「娘が倒れた」と心配しているかもしれない。誰もが同じ朝を迎えているが、その人々の動きを想像しても、何も響くものがない。
結局、私に残された感覚は「嫌だ」「もう無理だ」というネガティブな感情だけ。首筋に縄の痕はないのに、心の中には処刑台の冷たさと民衆の怒号、締め付けられる苦しみが生々しく残っている。それを拭い去ることは不可能に思える。
――こうして、私は誰の呼びかけにも応じないまま、鏡の前から動こうともしない。周囲がどれだけ心配してくれていても、いまの私にはその思いやりを受け止める余白がないのだ。まるで扉ひとつ隔てて、心の奥から全てを拒否しているかのようだ。
使用人が「お嬢様……」ともう一度だけ控えめに声をかけてくれたが、私は答えない。返事をする気力すらない。扉の向こう側では、しばらく待つような気配があったが、やがて気まずそうに立ち去る足音が聞こえた。そのやりとりでさえ、まるで他人事のように感じる。
(また、この世界が始まるのね。でも、私は……もう何をすればいいのかもわからないし、何もしたくない)
廊下でさざめく声が遠ざかり、部屋の中は再び静寂に沈む。あまりにも穏やかな朝の光が、私に「おはよう」と笑いかけているかのようで、かえって無性に腹立たしい。なぜこの世界はこんなにも当たり前のように回り続けるのか。死を迎えたはずの私を、どうしていつも通りの朝の中へ引き戻すのか。
私はじっと息をこらしながら、鏡の奥の自分と見つめ合う。そこにあるのは、絶望しか抱えていない瞳。何を言っても聞く耳など持たぬと分かっているのに、誰のもとへ助けを求める気も起きない。もし、もう一度あの惨劇を繰り返すのだとしたら、それこそ耐えられない。
こうして、私は宙ぶらりんのまま、部屋と自分自身を閉じ込めるようにして動けずにいる。扉の向こうには、私を案じる使用人たちがいると分かっていても、最後の一歩を踏み出すことができない。
ふと、脳裏をかすめるのは、死の寸前に願った「静かな眠り」。あのまま処刑台で終われたなら、どれほど楽だったろう。しかし、結局はこうして呼吸を続けている。これが生存なのか、ただの苦しみの延長なのかすら判断がつかない。
恐らく、また扉の外では侍女や家令が何か話し合い、「後ほど再度お声をかけしましょう」と相談しているのだろう。けれど、私はその声を聞くこともなく、答えることもない。ただ、このまま動けないまま、鬱屈した時間を抱え込むしかない。
――そうして私は、深い闇と朝の光が交錯する部屋で、自分が呼吸していることを苦々しく噛みしめ続けていた。今はまだ、あの処刑台の絶望を振り払えず、息をするだけで精一杯なのだから。
(……でも、どうすればいいの? 動けば、また同じ未来しか待っていないのに。私はもう何も、何も……)
その思いが最後に脳裏でつぶやかれ、私は再び言葉を失う。しんと静まった部屋の中、朝の光だけが変わらずに部屋の調度を照らしていた。いつか日が昇りきり、もっと明るくなるとしても、私の心は曇ったまま。そんな無力な事実だけが、じわじわと胸を塞いでいくのだった。




