第100話 二度目の目覚め①
――何度も繰り返す呼吸。荒れ狂う鼓動がようやく落ち着き始めたころ、そっと瞼を開くと、見慣れぬ天井が広がっていた。いや、正確には「見慣れていたはずの天井」なのだろう。けれど、処刑台での記憶があまりにも鮮烈すぎて、今ここにいることが遠い幻のように思えてならない。
喉の奥には、まだ痛みの残滓のような感覚がかすかにこびりついている。胸を大きく上下させながら空気を吸い込むと、穏やかな朝の気配が鼻先をかすめた。仄かに感じるのは、シーツや寝衣から漂う石鹸の清潔な香り。それは先ほどまで首を絞められるような地獄の苦痛を味わっていたとは到底思えないほど、優しく、安心感を誘う気配だった。
しかし、その平穏は、私の胸にいっそう重苦しい痛みをもたらす。先ほどまでの処刑台では、灼熱の空気と民衆の怒号、血の匂いが入り交じっていたのに、今はこんなにも静かで、普通の朝を思わせる空間がある。まるで真っ逆さまに落ちていたはずの死から、強引に生き返らされたかのような違和感が私の思考を乱していた。
身体を包むのは、柔らかな寝衣。肌を撫でる綿の質感が、やけに生々しく感じられる。わずかに捻った首筋には、もう縄のざらりとした圧迫感は残っていない。枷のように食い込んでいた苦痛の感覚を想像しようとすると、瞬間的に息が詰まる。あの首の圧迫はどうなったのだろう。
窓から差し込む朝の光はどこまでも穏やかで、カーテンの隙間を揺らす風が部屋に涼やかな流れを生み出している。耳を澄ますと、小鳥のさえずりが遠くから聞こえ、柔らかな陽ざしとともに、清々しい「始まり」を告げるかのようだ。けれど、私にはその音が白々しくてたまらない。まるで「おはよう」と笑いかける誰かの声を、嘲笑としか受け止められないように。
乱れた呼吸を整えながら、私は視線だけを動かして部屋の調度品を眺めた。クリーム色の壁紙、淡い花模様のカーテン、そして鏡台やアンティーク調のドレッサー。これらは確かに「私がよく知っているもの」のはずなのに、どうしてこんなにも遠く感じるのか。
(やっぱり、同じ。でも、何かが違う気がする……。それは私自身が変わってしまったからかしら)
その独白は小さく、誰の耳にも届かずに、部屋の空気へと溶けて消えた。落ち着きのある屋敷の調度品が静かに私を囲んでいるけれど、私はまるでよそ者のように感じてしまう。いや、むしろ部屋のほうが私を拒んでいるのかもしれない。なぜなら、ここにいる私は、もう一度「生」を与えられてしまった存在に他ならないから。
そっと身体を起こし、ベッドから足を下ろす。敷き詰められた絨毯はふかふかと柔らかく、まるで優しく受け止めるように沈み込んでくる。その感触は、長い間馴染んできたものだった。ずっと以前なら、朝の冷えきった床に足をつけるよりもよほど快適でありがたく思えたかもしれない。
しかし今は、この柔らかな絨毯ですら、どこか不気味さを伴う。私に安住の場所を与えてくれるはずの屋敷が、まるで「生き残ったことを喜べ」と言わんばかりに、当たり前の幸福を突きつけてくるようだったからだ。
胸の奥で嫌な重苦しさが広がる。先ほどまで感じていた、あの首を吊られた時の圧迫感はもうないはずなのに、代わりに得体の知れない苦味が意識を覆いつくす。結局、どこに行っても私は救われないということなのだろうか。
ここが「死後の世界」なのだとしたら、まだ納得もできただろう。処刑台で確実に死を受け入れたはずなのに、なぜ再び意識が戻ってくるのか。それも、まるで夢から醒めたかのような自然さで。たとえただの悪夢だと言われても、あれほど激しい痛みと恐怖を“幻”とするにはあまりに生々しすぎる。
足取りの重さを引きずったまま、私は鏡の前へと歩を進めた。正面に立った鏡には、健康そうな自分が映し出されている。頬にはうっすらと血色が戻り、瞳には若さを宿しているようにさえ見える。この姿が何より私を不安にさせる。どうして、あんな絶望をくぐったはずの人間が、こんなにも生気を取り戻しているのか。
指先をそっと鏡に触れてみる。冷たいガラスが指先をはね返すようで、そこから生まれるかすかな音に胸が震えた。
「……また、ここなのね」
思わず吐き捨てるようにつぶやく。声が静まり返った部屋に溶けていき、続く言葉は浮かばない。夢だったと、そう思いたい。その願いは切実だが、私の胸をえぐるあの処刑台の絶望や、首を吊られた瞬間の苦痛は、確かに私が体験した現実として刻まれている。そう簡単に「幻」で済む話ではないと知っている。
(私は、一度あの国を導いた。そして、権力に溺れ、粛清を繰り返し、民衆の怒りを買って処刑された――あれが真実。なのに、どうして。どうして私はまた戻ってきたの?)
鏡に映る瞳は、自分のものとは思えないほど暗く、底の見えない淵のように沈んでいる。何かを確認するように唇を引き上げ、苦し紛れに笑みを作り出そうとしてみても、それはすぐに崩れ落ちる歪なものにしかならない。あまりに滑稽で、自分自身すら欺くことができない。
あのとき、私が手にした権力は、結果的に何をもたらしたのか。人々を救うどころか、多くの命を奪い、最後には私自身が処刑台へ追いやられた。そんな過去を抱えたまま、なぜ今さら戻ってきているのか。まるで“もう一度やり直しなさい”とでも言われているようで、私はたまらない嫌悪感を覚える。
「……もう、嫌」
ほんの小さく洩れた声すら震えていることに、我ながら驚く。気づけば、鏡台の椅子から立ち上がることさえしんどく感じていた。私の周囲にある柔らかな家具や優雅な調度品が、かえって奇妙に見える。つい先ほどまで、血生臭い最期を迎えたはずの私が、「貴族の令嬢」の部屋で目覚めるなんて、あまりに皮肉が過ぎる。
(もしやり直したところで、行き着く先は同じ──血と裏切り、そして破滅。そんな未来しか見えない。もう一度、あんな道を歩む気力なんて、私には残っていない……)
心の奥底で、何かがじくじくと疼いている。目を閉じると、処刑台から見下ろした群衆の怒りの表情と、独裁者として振る舞った過去の自分が交互に浮かんできた。どちらも思い出すだけで吐き気を催すが、それが紛れもない私の「歴史」なのだ。そう思うと、この先どう生き直そうと、結末が違う未来など想像できはしない。
問いかける相手もいないまま、私はその場に座り込み、肩を落とす。どれほど時間が経ったのかも分からない。外の窓から差し込む朝日が、徐々に部屋の家具を照らし、淡く暖色を帯びていくのが感じられた。
頭の中には、「もう二度と同じ過ちを繰り返すまい」「誰も殺したくない」という思いと、「どうせ何をしても結局は同じ道をたどる」という諦めが同居している。見慣れた鏡台や装飾をぼんやり見つめながら、胸の奥が少しずつ凍りついていくのを感じた。「これ以上は抗えない」と、自分自身が悟ってしまったかのように。
すると、部屋の外から使用人らしき足音が近づくのがかすかに聞こえてきた。廊下を通り過ぎる気配があり、控えめなノックの音が扉を震わせる。
「お嬢様、失礼いたします。ご体調はいかがでしょうか……?」
それは、慣れ親しんだ侍女の声。ごく穏やかで、愛情さえ感じさせる響きなのに、いまの私には遠い存在にしか思えない。生きているかもしれないのに、この胸の奥から湧き上がるのは、まるで生への嫌悪だった。言葉を返す気力が湧いてこない。
返事をするどころか、顔を上げることさえ躊躇われる。鏡の中の自分を見つめたまま、私は口をつぐんだ。
ノックの音がもう一度鳴り、扉の向こうで使用人が不安そうに声を落とす気配がある。誰かが「お嬢様……?」と小声で呼びかけるが、それにも答えられない。
やがて、気まずそうな空気が扉一枚越しに伝わってきた。幾秒か逡巡があったのち、彼女の足音は遠ざかっていく。私を心配しているのだろうに、それがなおさら私を追い詰める。親切を向けられるたびに、どうしようもなく「私はもう何もできない」という無力感が押し寄せてくるからだ。
(また、この世界が始まるのね。でも、私は……もう何をすればいいのかもわからないし、何もしたくない……)
先ほどまで死を望んでいたはずの私が、再びこうして生を受けている。その現実はあまりにも酷だ。もし、誰かが「生きていてよかった」と言ってくれても、私はただ首を振るしかない。なぜなら、自分の手がどれだけの血を流してきたかを思い出すと、いまさら人生をもう一度やり直す気力など湧いてこないのだから。
深く沈み込むような虚脱感が、またしても胸の奥を重く支配していく。この屋敷での暮らしは、かつての私なら心をときめかせたかもしれないが、今となっては空虚な舞台装置にしか見えない。
使用人たちの柔らかな会話や、軽やかな足音が廊下の奥からわずかに聞こえてくる。彼らはいつもと同じ朝を過ごしているのだろう。私が突然倒れたと聞いて、なおさら心配しているに違いない。だが、それに応えるすべをいまの私には見つけられない。
扉の向こう側では、申し訳なさそうに気を遣う声が断片的に聞こえる。どうやら「お嬢様はご気分が優れないらしい」と、侍女同士が小声で話し合っているようだ。申し訳ないと思う一方で、私ができることなど何もない。ドアを開ける気力さえ湧かないのだから。
(どうして……ここにいるんだろう。どうして私はまだ、生きているんだろう。
あんなふうに死を迎えたのに、どうして……また、同じ悲劇を繰り返さなきゃいけないの?)
この問いは虚空に消えて、返ってくるものは何もない。まるで私の心の中だけでこだまし、行き場を失って消えていくだけの声だ。




