第97話 残された傷跡②
クラリスは医療と教育の再生に全力を注いでいた。あの独裁期には、彼女の研究や技術が軍事目的に転用されかねない危険があったため、慎重な動きをしていた。しかし、結果として国家の混乱を防げなかったのは、本人にとって痛恨の極みだ。
研究施設や学校は革命や紛争の余波で多くが破壊され、救護用の物資さえ尽きかけている。彼女のもとに集まった医師や教師たちは皆、疲弊し、絶望に似た感情を抱えていた。
そんな状況でもクラリスは言う。
「子どもたちが安心して学べる場所を、一日でも早く取り戻さないと……」
言葉の端々には痛みがにじみ、パルメリアとの思い出を思い返すとき、どうしても涙をこぼしそうになる。
「あの時、もし、彼女が研究を正しい方向に活用してくれたなら……。もし、私がもっと強く止めていたら……こんな血塗れの未来にはならなかったかもしれないのに……」
そう後悔しても、時は戻らない。だからこそ、今後は絶対に自分の技術を暴力に使わせないと強く心に決めている。医療や教育を発展させ、人々が健やかに知識を得て生活できる環境を作る――それは、クラリスにとって「贖罪」とも言える使命だった。
そして、同じ思いを抱える医療スタッフや学者、技術者がほんの少数ながらも集まり、「もう独裁にも粛清にも負けない研究機関を作ろう」と決意を新たにしている。手元の資料や道具は焼け落ちて乏しいが、そこから再スタートすることに意味があるのだと信じていた。
独裁が崩壊しても、実際に人々の暮らしが良くなるには相当な時間がかかる。徴発で荒れ果てた農地は耕作不可能に近く、家畜も戦争の兵糧や物資調達で奪われたままで、農民たちには新たな種や道具を買う余裕もない。
都市部はところどころ焼け落ち、通りには物乞いがあふれ、孤児や負傷者が薄汚れた服のまま路上に座り込んでいる。一方で、粛清を逃れた貴族や商人の一部が隠し財産で暮らしている様子も見られ、格差はむしろ拡大しているかに思える。
「もう、王政だろうが革命だろうが、どうせ誰が偉そうにしても同じだ……」と投げやりにつぶやく老人もいれば、「パルメリアのおかげで少なくともあの王政には勝てたんだ、なのに、あんな風に処刑して……」と未練や憤りを漏らす若者もいる。
あらゆる場所で、絶望と未練、そして新政府への疑心暗鬼が渦巻いている。道端の人々のざわめきが、朝日から昼の光へと移ろう時刻を境に少しずつ増していくのが分かる。誰もが疲れ果てた瞳をしていて、これから先の長い復興に立ち上がる元気などなさそうに見える。
それでも、ほんの少しずつ炊き出しや救助活動に参加する者、被災した建物の修繕を手伝う者、微々たる貯えを近所の孤児たちに分け与える者なども現れている。彼らの行動はごく小規模だが、そうした小さな善意の連鎖が、この暗い国のどこかに微光を灯しているのは確かだ。
王政を倒した英雄としての記憶と、独裁者としての恐怖。それらが混在し、人々の間ではパルメリアへの評価が大きく割れている。
かつて、彼女が王政の圧政を打破したことで救われた人々は、「あれほどの功績を残した革命家を処刑するなんて、あんまりだ」「彼女は本当は国を守りたかっただけでは……」と泣き崩れる。
一方で、独裁期に家族を粛清された者たちは、「あの女がどれだけの地獄を作り出したか、みんな忘れるな!」「絶対に許せない!」と怒りを隠さない。特に親族や友人を失った人々の憎しみは根強く、パルメリアの名を口にするだけで衝突が起こることもある。
こうした対立は、新政府を悩ませていた。ある場面で、暫定政府のスタッフがレイナーに問う。
「このままじゃ、パルメリアを『英雄』と祀る勢力と、『悪魔』と断じる勢力が衝突しかねません。どうするつもりですか?」
レイナーは苦い表情でうつむく。
「わからない。けれど、過去の功罪を全部なかったことにはできない。僕たちには、彼女が王政を倒した貢献も、独裁で流した血も、すべて受け止める義務がある……」
その言葉を聞いたスタッフは、言葉を詰まらせて黙り込む。国中がこの「矛盾」を抱えているのだ。誰もが理想や正義のもとに行動したはずが、結果的に独裁と粛清を生んでしまった。その張本人の評価を、一概に断罪することも賞賛することも難しい現実が、国を分断しそうな危うさを孕んでいる。
その中でも、最も深い苦悩を抱えていたのがガブリエルだった。
軍司令官としての立場から、彼はパルメリアを信じ、守るべき主君と仰ぎ続けていた。独裁政権下でも、騎士としての忠誠を誓ったまま、結果的に粛清や戦争を後押ししてしまったと言える。
第二の革命でパルメリアが倒されるとき、彼は葛藤の末に反乱側へ回った。しかし、そのことで彼の心はずたずたに裂かれた。主君を裏切った罪悪感と、独裁に加担してしまった罪悪感の両方が、彼の良心を断罪してやまなかったのだ。
やがて、パルメリアの処刑を目の当たりにし、自分が守ると誓った主君が処刑台のロープに消えていく瞬間を見てしまった後――ガブリエルはすべての希望を失ったように生きる気力を失っていった。
周囲は「あなたにはまだ役割がある」と説得したが、それでも彼は心ここにあらずの状態で、ただ機械的に負傷兵や遺族の救済に携わった。その姿は、何かに取り憑かれたように必死で人々を助けながらも、自分自身を見失っているかのようだった。
「……私はパルメリア様を守れず、ましてや独裁を止められなかった。こんな私に騎士道など語る資格があるのだろうか」
そう孤独につぶやき、夜ごとに涙を飲み込む日々。周囲が彼を気遣い助けようとしたときには、すでに彼の心は深い闇に沈んでいたと言う。
そしてある日の夜明け、ガブリエルは人知れず静かな小屋で息を絶っているのが発見された。その場には彼の短い遺書が残されていた――「私はパルメリア様を救えなかった。申し訳ありません」とだけ書かれた紙が、鮮明に悲しみを宿していた。
その報せが暫定政府に届いた時、レイナーやユリウスは言葉を失い、クラリスは泣き崩れた。かつては同じ理想を掲げ、王政を倒すために立ち上がった仲間が、独裁と革命の狭間で命を落とした。彼の死は、まざまざと「血塗られた歴史の終わりではない」ことを告げているようにも思えた。
三人は思い出す――かつて王政打倒の戦いを共に駆け抜けたあの日々を。ガブリエルは寡黙ながらも信念を持つ騎士であり、誰よりもパルメリアへの忠誠心が厚かった。あの頃は、みんなが同じ理想を夢見ていたのだ。
ユリウスがポツリとつぶやく。
「……彼を救えなかったのは、俺たちのせいかもしれない。いや、誰のせいとか、そんな単純な話じゃないのはわかってるんだが……」
レイナーは深く息をつき、「彼は最後まで、パルメリアと共にある自分を捨てられなかったんだろう。主君を護れなかった罪悪感と、独裁を止められなかった自責が、彼を追い詰めた……」と続ける。
クラリスは目を潤ませながら、「私たちがもっと早く……もっと何かできていたらって、思ってしまうの。結局、また一人の大切な仲間を失ってしまった……」と声を震わせる。
こうして、革命後の世界でも、仲間の死は終わらない。独裁が崩れても、それで苦しみが消えるわけではない。むしろ、新体制の荷が重くなるほど、過去の傷や後悔は人々を蝕んでいくのだ。
それでも三人は決して折れない。この痛みを忘れないために、ガブリエルの名を胸に刻みながら、今後の国づくりに立ち向かうことを再度誓った。彼の死を無駄にしない、それが残された者の義務だと信じている。
さらに、国外に追放されていた元王太子ロデリックの耳にも、パルメリアの処刑の一報が届いた。
彼女と理想を語り合い、革命に身を投じた過去を持つロデリックにとって、その知らせは衝撃だったに違いない。王政が倒れ、自身が亡命の身となった後も、彼はどこかでパルメリアが理想を実現する姿を願っていたのかもしれない。
しかし現実は、彼女が独裁者として国を支配し、最後には処刑台で散った――と聞けば、その落胆と悲嘆は計り知れないものだろう。伝え聞くところでは、彼はその場に膝をつき、しばらく言葉も発せず、ただ何かを見つめるような虚ろな目をしていたという。
やがてロデリックは人目を避けるように姿を消し、二度と公の舞台に戻ることはなかった。彼がこの先どこへ行き、どんな人生を送ったのか、誰も知らない。彼もまたパルメリアを愛し、あるいは憎み、けれど彼女の死という結末をどう受け止めるか答えの出せないまま、遠い国の風に消えていったのだろう。
こうして、独裁者パルメリアの死をめぐる波紋は、国外にまで及び、あらゆる人々の運命を変えていく。皆がそれぞれに苦い喪失感を抱え、新たな道を模索しながらも、その道の先は決して明るいと断言できるものではなかった。




