第92話 狂気の果て⑤
夜闇は、すでに薄れている。窓の外は、遠く東の空が白み始めている。血塗られた一夜の乱戦の果てに、ようやく訪れる朝――それは、勝利か、あるいは終末か。
パルメリアは両手を震わせたまま、レイナーたちを見上げる。そこに憎悪や攻撃的な光はなく、ただ惨めな絶望に沈み、涙を溜めているように見える。
「……私が……王政を倒した、あのとき……私が掲げた『自由』や『平等』は……どこへ消えてしまったの……? 誰も、誰も教えてくれないのね……ふふっ……」
もはや嗤いの意味すら消え失せた声。ユリウスはたまらず、そっと彼女の腕を支える。パルメリアは抵抗しようとはしない。糸が切れたように、なすがままだ。
「……君が望んだものは、最初から間違いじゃなかった。間違ったのは、手段だ。……でも、それを正せなかったのは、俺たちも同じだ……ごめん、パルメリア……」
ユリウスの謝罪に、パルメリアははっとしたように瞬きをする。その目には、もはや狂信の光は消え、ただ揺らめく涙の膜が切なげに光っていた。
隣の床には、さきほど彼女が落とした剣が転がっている。輝きなどなく、血や埃で汚れているだけだ。パルメリアはその剣を一瞥して、「ふふっ……」と最後の笑みをこぼす。もはや手を伸ばすことさえしない。
今はもう、何もかもが手遅れだという思いが、表情に刻まれている。
やがてクラリスが足音を忍ばせ、彼女の肩にそっと手を置く。パルメリアはその温もりを拒むような仕草を見せるが、すぐに力を失い、ただ小さく震えるだけだ。
「……パルメリア、どうか落ち着いて……。もう私たちは、あなたを責めるためだけに来たわけじゃない。ただ、あなたを止めたいの……あなたがこれ以上、自分を追い込んで破滅するのを見たくないから……」
その言葉にパルメリアは唇を震わせ、やがて枯れたような笑みを浮かべる。
「ふふっ……優しいわね、クラリス。……でも、私の罪は消せない……。民をどれだけ殺したと思ってるの……? 狂ってるのよ、みんな……私も……あなたたちも……この世界も……」
かすれた声が、部屋の隅に吸い込まれるように消える。ユリウスとレイナーは、もう何も言わずにうつむく。ガブリエルは、かつての主君を見下ろしながら、声にならない嘆きをこぼし続ける。
重々しい沈黙がそこに落ち、遠くから朝を告げる鳥の声がかすかに聞こえてきた。
外での戦闘は収束し、民衆が大きな勝利の叫びを上げつつも、その裏には数多くの屍が横たわっているはずだ。独裁を止めるために起こした「第二の革命」が成就したのだ――だが、そこには祝福の光など一片も感じられないほどの悲壮感が漂っている。
パルメリアは、その肌で「敗北」を受け入れたのか、悔恨や寂寥に苛まれながら、狂気という名の支えを失って正気に戻りつつあるように見える。脆く崩れていく姿は、あまりにも哀れだった。
すると、執務室の窓の一つに朝日が差し込んだ。空が少しずつ青みを増し、闇を溶かし始めている。血と硝煙が充満する中、彼らは思わずそちらへ視線を向けた。
「……もう朝か」
レイナーが低くつぶやき、ユリウスも刹那、目を閉じる。こんなにも血塗られた一夜の後に、容赦なく朝日は昇るのか――それが一瞬、残酷にも思えた。
パルメリアはその光を感じ取り、伏せていたまぶたをゆっくりと開く。瞳に映る淡い陽光が、彼女の頬にうっすらと映し出されている。
「光……が、差してる……ふふっ……あははっ……皮肉ね……私が望んだ『新しい朝』は……こんな形で……」
歯を食いしばるようにしながら、パルメリアは呆然と窓の方へ視線をやった。
かつて、王政が倒れた朝もこうして差し込む光に歓喜したのだ。民衆が自由を手に入れる証として。しかし今回は、一夜のうちに独裁が崩壊し、膝をつく自分だけが取り残されている。その惨めさと安堵が奇妙に入り混じり、彼女の心を乱していた。
ユリウスやレイナーらは黙ってそれを見つめる。誰も「終わった」とは言えない。実際、多くの痛みや悲しみはこれからも残り続ける。だが、この夜の苦しみは一応の幕を下ろそうとしていた。
パルメリアは膝をついたまま、肩で大きく呼吸を繰り返している。先ほどまでの「ふふっ」「あははっ」という嗤い声は小さく弱まっていき、最後にはただのかすかな息遣いに変わった。
「私……負けたのね。……革命を起こされる側になって……皆に……見捨てられて……」
その声は震えているが、そこに宿る狂気は消えかけているようにも見える。まるで、長い悪夢から目覚めたばかりの人間のようだ。
ガブリエルは立ち上がり、その姿を静かに見下ろす。朝日の柔らかい明かりが、戦いで汚れた彼の軍服をわずかに照らし、かつて誇った騎士の証が血にまみれて光を反射していた。
「パルメリア様……もう何も言わなくて構わない。あなたは生きて、これまでの罪を償えばいい。それだけが、今できることだ……」
その言葉にパルメリアはかすかに唇を震わせ、視線を伏せる。生きて責めを受ける――それは彼女が最も恐れた結末かもしれないが、同時に唯一の救いの可能性でもある。
「……生きる……? 私が……」
一瞬、また笑い声が込み上げそうになるが、かすれる息の中でそれは消えてしまう。代わりにただ涙が頬を伝い落ちるだけだ。もう、笑いを維持する気力さえ残っていない。
そのとき、窓の外で鳥が一声啼いた。つい先ほどまで聞こえていた銃声や爆発音は遠のき、民衆の喧騒がかすかに広場から聞こえるだけになっている。
ユリウスやレイナー、クラリスも、ついに武器を下ろして立ち尽くしていた。パルメリアの身体はがくがくと震えているが、もう闘う意志はない。独裁者の狂気は、こうして自壊していく形で幕を下ろしたのだ。
(俺たちは……この朝から、何を築き直せばいい? パルメリアが破壊したものも、彼女自身が守ろうとしたものも……すべて血と涙のなかにある)
ユリウスはそんな問いを抱えながら、レイナーと視線を交わす。レイナーもまた、唇を噛み締めながらうなずく。クラリスはそっと彼らを見て、うつむく。ガブリエルは……傷ついた心を抱えながら、パルメリアの近くで瞳を伏せていた。
灰色の夜闇を溶かすように、東の空が確かな光を宿し始める。色を失った大理石の床に、その柔らかな朝日が差し込み、硝煙や埃を透かして金色の薄明が広がりかけていた。
世界がゆっくりと色を取り戻すように、しかしそこには無残な破壊と命の犠牲が残されている。それが、この「第二の革命」の現実だった。
パルメリアはうなだれたまま、ふと微笑むように唇を動かす。
「ふふっ……夜が……明けるのね……。こんなにも、血まみれの朝……。あははっ……ああ……どうすれば、取り戻せるのかしら……私、もう分からないわ……」
その言葉を聞いて、誰もが胸を痛めながら黙り込む。彼女を死なせることなく捕縛できたのかもしれないが、それが救いになるとは限らない。ここから先の道のりは、もっと険しく、苦しいものになるだろう。
けれども、今この瞬間だけは、「夜が終わる」という事実が、全員の心に一筋の光を注いでいた。果てしなく漆黒だった独裁の夜を、たとえ血に染まってでも乗り越えた――その象徴としての朝日が、瓦礫の部屋に差し込んでいる。
部屋の隅で、命を落としかけていた親衛隊員が、小さな声を上げてすすり泣く。外では民衆がうめきながらも、勝利の余韻を噛み締めている。ガラスが割れた窓から冷たい風が吹き込み、涙や血に濡れた床をさらりと撫でていった。
「……これで、ようやく……次へ進める。そうだろう、レイナー」
ユリウスがかすれた声で問いかけると、レイナーはぎこちなく微笑み、力なくうなずいた。
「……そうだね。僕たちは、もう一度……作り直すんだよ、この国を。パルメリアを見捨てたりしない……どんな形になろうと、責任を果たすんだ……」
言葉が全てを救うわけではないが、彼らは何度でも言い聞かせる。あの日の革命の火が、むなしく消え去ったわけではない――そう信じたいからだ。
パルメリアは、すすり泣きの息の中でわずかに目を伏せる。かつてのような狂信じみた光はない。代わりにあるのは、疲れ果てた心の叫びと、大きな挫折の痛み。床の上に垂れ流れた涙が、これまで決して見せなかった「本心」を物語っているかのようだ。




