第90話 決起の合図①
夜の帳が、首都全体をどこまでも深く包み込んでいた。街の大通りには、いつもなら人々の足音や商人たちの掛け声が聞こえたはずだが、今はまるで死んだように静まり返り、代わりに冷たい風が突き刺すように吹き抜けている。まばらに残る灯火さえも、不安げに揺れては落ち着きを失っていた。
この国は、すでに長い夜を生き抜いている――そう言っても過言ではないだろう。王政が倒れたとき、人々は新しい朝日が昇ると信じた。だが、その「革命の英雄」であるパルメリア・コレットは、いつしか圧倒的な権力を握り、「独裁者」と呼ばれるほどの恐怖政治を行うようになっていた。
秘密警察が生み出す監視の目はいたるところに張り巡らされ、少しでも政府を批判するような言葉を漏らした者は「反乱分子」として粛清される。徴発と重税は強化され、飢えにあえぐ人々は日々増えていく一方だった。周辺諸国との戦争にも手を伸ばした結果、戦費は膨らみ、国内はさらに荒廃へと追い込まれる。
そうした混迷のなかで人々の心に芽生えたのは、「もう一度革命を起こすしかない」という悲壮な覚悟であった。すでに民は限界に近づいていたのだ。
首都の一角――古びた建物の地下倉庫は、今まさに「第二の革命」の火種を抱える人々がひそやかに集う場所となっている。床には油染みが広がり、古い木箱が積み上げられた陰には、血の気の多い若者から、かつてパルメリアに仕えていた経験者までがうずくまり、ささやき合っていた。
そこへ「合図が来た」という、短く、けれど鮮烈な知らせが駆けこむ。
「ユリウスさん! レイナーさん! 各地から『準備が整った』という報せが届きました!」
緊張した声音が響いた瞬間、周囲にいた者たちの息が一斉に止まるように感じられた。それはただの報告ではなく、「ついに決起の刻が来た」という意味を秘めているからだ。
ユリウスは低い声で応じた。
「……わかった。お前はすぐに、各拠点へ『予定通り動け』と伝えろ。――引き返せない、な」
彼の瞳は、かつて王政打倒の際に輝いていた熱意を思わせる色を帯びている。しかし、その奥には王政時代とは異なる深い苦悩が刻まれていた。「どうして、あのパルメリアを倒すためにまた血を流さなければならないのか」――その疑念を押し殺し、彼は机上の地図に視線を戻す。
その隣では、レイナーが地図と書類を交互に睨みつけていた。外交担当として彼が得た情報は、すでにこの国が戦費と粛清で崩壊寸前であることを示している。周辺諸国との関係も破綻しつつあり、人々の暮らしは地に落ちていた。
「僕は……これ以上、民に苦しんでほしくない。パルメリアを止めるには、もはや強行手段しかないとしても……」
懸命に抑えられた声でそう漏らすレイナーの横顔は、王政打倒の頃には想像もできなかったほど悲愴な決意に満ちている。革命によって生まれるはずだった「自由と平等」は、いつの間にか「血と恐怖」に塗り替えられてしまった。その無念と痛みが、彼の胸を焦がすのだ。
さらに奥では、クラリスが医療物資のリストを照らし合わせていた。かつては研究者として革命の改革を技術面から支えた才女であり、王政打倒の一翼を担った人物だ。しかし、今の「独裁政治」の中で、彼女が心血を注いだ技術は戦争や粛清に利用されるばかり。
クラリスは眉をひそめながら、声を押し殺すように言う。
「この戦いで負傷者が出るのは避けられませんが……できるだけ救護の体制を整えたいです。国中でこれ以上、血を流したくないのに……今は、この手段しか残されていないのですね」
大きな瞳にかすかな震えをたたえ、しかし震える唇からはきっぱりとした意志が感じられた。もう決して引き返せないのだ――。
部屋の中央の古びたテーブルには、一枚の大きな地図が広げられている。それは首都の詳細な構造だけでなく、保安局や国防軍の配置、物資庫や倉庫の位置などが綿密に記された、秘密の「地図」だ。本来なら最高機密扱いのこれらの情報が、いまここにあるのは、軍や保安局内部に協力者を得ている証拠でもある。
ユリウスはその地図を指し示しながら、声を低く抑え、集まった面々に呼びかけた。
「――首都での戦いをできるだけ短期決戦にするには、この三つの拠点を同時に制圧する必要がある。大統領府、軍司令部、そして保安局本部……。敵が分散している隙に一気に叩き、パルメリアを捕縛できれば理想的だ」
その言葉に、部屋の空気が張り詰める。王政を倒したあの日の革命でも、首都を制圧するには大きな流血が避けられなかった。今回は、かつての仲間だったパルメリアと、その親衛隊との直接対決になる。
どんな惨状が待ち受けているか、考えるだけでも胸が抉れる思いだ。それでも、誰ひとりとして退く者はいなかった。
ユリウスがさらに言葉を継ぐ。
「……戦いの合図は、首都の各所でほぼ同時に起きる『爆発』で始める。音が響いたら、全てのグループが同時に蜂起してくれ。これは、前回の革命で試みた陽動策を応用したものだ。相手の目を分散させれば、一ヵ所に兵力を集められなくなる」
確かに、前回の王政打倒時にも、別働隊がわざと貴族街に火を放ち、守りを分散させる戦術があった。あれは成功したが、多くの民が巻き込まれたという苦い過去もある。
レイナーはその点を思い出し、少し辛そうに眉を寄せる。
「民が巻き込まれる恐れもある。なるべく被害を抑えたいけれど……今のパルメリア政権を放っておくと、そもそも国内外でさらなる流血を招く。僕たちは一刻も早く止めないと、国そのものが滅びかねない。――わかっている、けど……」
声を震わせるレイナーに、ユリウスは静かにうなずく。
「俺だって、二度目の革命なんてしたくなかった。……だが、王政以上の圧政を敷くなら、もう止めるしかないんだ。奴らは容赦なく武力を行使してくるだろう。俺たちも本気でぶつかるしかない」
悲壮な決意がユリウスの言葉に宿っている。かつてはパルメリアと共闘して王政を倒した日々を思い出すと、胸が痛む。だが、それ以上に、いま国中に広がる苦しみを放置するわけにはいかない。
そこへ、ガブリエルの配下を名乗る若い兵が駆けこんで来る。
「失礼します! 司令官からの伝言です。『準備は万端。合図を待つのみ』と……。軍の大半が司令官を信頼しており、今なら一斉に動けるとのことです!」
兵士の声には熱がこもっている。軍司令官のガブリエルもまた、元はパルメリアを守る騎士だったが、独裁に苦悩しつつも従ってきた男だ。その彼が、ついに決断を下したというのは、蜂起側にとって大きな力となる。
この報せを聞いた瞬間、ユリウスは思わず大きく息をつき、レイナーはほっと肩を落とす。クラリスも、わずかに表情を緩めた。
「ガブリエルさんも……やっぱり耐えきれなかったのですね。彼は騎士道を重んじる人。パルメリアに忠誠を誓ってきたけれど、それでもこの惨状を見過ごせなかったはずです」
クラリスがそうつぶやくと、周囲も深くうなずいた。
パルメリアは、独裁の名のもとに秘密警察を掌握し、軍司令部をも支配してきた。しかし、指揮官や兵士たちが皆、独裁に心酔していたわけではない。長引く外征で戦死する仲間を見送り、国内での粛清を目にし続ければ、誰しも疑問を抱くものだ。それを束ねるのがガブリエルだというのなら、もはやパルメリアの足元は大きく揺らいでいる。
ユリウスはテーブルに両手をつき、地図を眺めながら言い放った。
「よし、今夜が本番だ。……ここで何もせず待っていれば、パルメリアはますます粛清を強化し、周辺諸国との戦争も拡大するだけ。そんな未来を見たくないなら、俺たちが立ち上がるしかない」
部屋には沈痛な空気が流れていたが、その中心には確かな決意が灯っている。それは「必ず国を変える」という強い想いだ。王政を倒した時の熱狂とは違い、今回は多くの痛みを伴っている。しかし、それでも彼らは前に進むしか道はないのだ。
レイナーが地図を折りたたみながら、静かに提案を付け加える。
「各抵抗組織もすでに待機している。夜が深まれば保安局の巡回も一度薄くなる。その隙を狙って、各所で爆発音を合図に動き出すんだ。……一挙に、首都の要所を押さえるんだよ」
若い兵士たちも拳を握りしめ、互いに熱い視線を交わす。その手には簡素な武器や自作の小型爆弾が握られている。技術者のクラリスが手助けしたものもあったが、彼女の真意は「一刻も早く独裁を終わらせ、民の犠牲を最小限にしたい」という切実な願いにほかならない。
「万が一失敗すれば、私たちは全員粛清されるでしょう。それどころか、さらに苛烈な圧政が敷かれるに違いありません。……でも、このままでは国が崩壊するから……私たちがやらなくてはいけないのです」
クラリスが絞り出すように言い、周りの者たちも黙ってうなずいた。あの「革命」を共に成し遂げた日々を思い出すたび、胸が張り裂けそうになる。しかし今は、涙に浸る暇など与えられない現実がある。




