第88話 血の粛清③
「大規模粛清」の布告が発せられた翌日、ガブリエルは再度大統領府に呼ばれる。
通された執務室では、パルメリアが一人机に腰掛け、書類の山をうっすら手で撫でながら笑んでいる。
「ふふっ……ガブリエル、また来てくれたわね。あなたが私を裏切らないと信じたいけど、最近『軍が妙な動きをしている』って耳に入ってるの。あなたの部下が反逆者に通じているんじゃないのかしら?」
その問いに背筋が凍る思いを抱えつつ、ガブリエルは硬い声で答える。
「軍は私の監督下にあります。何人か疑わしき者は調査している最中です。……全て私が責任をもって対処いたしますので、ご安心を」
パルメリアの視線は狂信の輝きに満ちている。まるであらゆる人間の心を見透かすかのように睨み込むと、唇を歪めてあははっと笑う。
「ならいいわ。ふふっ……もしあなたが『誓い』を破るなら、私は容赦なく処分する。そういう世界なのよ、わかるでしょう? 私を失望させないでね」
ガブリエルは唇を固く結んで黙礼する。しかし、その目には確かな決意が宿りつつあった。もう、彼女の側に留まり続けることが民を救う道だとは到底思えない。
(……ここで私が加担すれば、さらなる血が流れる。今度の粛清は何千という規模だというじゃないか。彼女に「裏切り者」扱いされようと、止めねばならない。……私は、もう迷っている暇はない)
パルメリアはそんな彼の心のうちを知らず、ふふっと笑みを漏らしていた。自分の命令がこの国で絶対の力を振るうと確信し、ガブリエルさえ屈服させていると思っているのだ。
その夜、首都のあちこちで不気味な足音が走り、保安局の部隊が多数動き出した。市街地や下町を徹底的に捜索し、レジスタンスの疑いがあるという情報を持つ家や集会所へ踏み込み、容赦なく逮捕していく。
また地方都市や農村にも、同じ命が通達され、密告によって名が挙がった者を次々と引きずり出し、抵抗する者は問答無用で撃ち殺す。まさに「血の粛清」の始まりだった。
「やめてくれ、何もしてないのに……!」
「黙れ。パルメリア大統領閣下に敵対する者は全員、死あるのみだ」
夜の静寂を裂くような銃声や悲鳴が広がり、人々は怯えて家に閉じこもる。しかし保安局は家屋の扉を壊して踏み込み、略式の尋問の末、その場で射殺することさえ珍しくない。
こうして市街の各所で血が流され、路上には倒れ伏した死体が増えていった。
軍内部でも、上層の一部が保安局と連携し、逮捕の補助に走るケースが散見された。しかし、多くの兵士はこれほど大規模な無差別粛清に強い嫌悪を示し、逆に指示に従おうとしない者も多発している。
将校の中には兵士を無理やり出動させようとする者と、それを拒んで内通する者が入り混じり、まさに一触即発の状態となっていた。
「命令とあらば粛清に協力せよ」と迫られ、兵士らは恐怖や葛藤に苦しむ。友人や同僚が疑わしいとされれば通報せねばならず、拒めば自分が疑われる――この構造がさらに亀裂を広げている。
激しさを増す粛清の最中、ガブリエルの元にも「出動指示」が保安局から届く。地方の農村を急襲し、「第二の革命」に関係すると疑われる住民たちを一網打尽にせよというのだ。
司令部の若い将校たちが顔を曇らせて集まり、ガブリエルに詰め寄る。
「司令官、本当にこれをやるんですか。……俺たちの家族がいる村だって狙われている。もうたくさんです」
その声には悲壮感が漂う。ガブリエルもまた、この無慈悲な命令を受け止め、かつての自分が「守ろう」と誓ったものとのあまりの落差に、唇を結ぶ。
「……わかっている。保安局の指示だ。もし拒めば、お前たちも『反逆者』扱いされる。しかし、私が従えば……さらに多くの無辜の民が殺される」
従えば悲劇、従わずとも悲劇――このどうしようもない二択を、ガブリエルは何日も悩んできた。しかし今、もはや後戻りはできない段階に来たと感じていた。
兵士たちが絶望的な表情を向けるなか、ガブリエルはあらためて己の胸に問いかける。「誓い」とは何か?
「騎士道」は、かつて王政の腐敗から民を救うため、パルメリアに仕えた。その結果、今は自分が民衆を殺す手伝いをしているのだ。
――その矛盾に耐え続けた日々の果て、いま軍内部の多くが「第二の革命」を支持し始め、粛清の嵐が最終段階に突入している。
もしここで自分が動かなければ、さらなる血が無関係な人々にも降りかかる。将校も兵士も罪悪感と恐怖に飲み込まれる。
「……私の誓いは、もう死んでいるのかもしれない。しかし、それでも『今できること』を果たさなければ、民も兵士も取り返しのつかない地獄へ堕ちるだけだ」
そうつぶやき、ガブリエルは決心するように拳を握る。
パルメリアへの忠誠は自分の半身のようなもの。しかし、このまま服従を続ければ、さらに凄惨な粛清が繰り返されるのは明白だ。もう、どこにも逃げ道はない――「裏切り」以外には。
(私は……主君を裏切る。これで騎士としての誇りは終わるだろう。だが、それでも民を守る道はこれしかないのか……)
胸を裂かれるような思いを押し殺し、ガブリエルはひそかに目を閉じる。それはパルメリアのもとに仕える「騎士」という自分を殺す行為だが、その先でしか民を守る希望はない。
兵士たちが彼の周囲に集まり、不安げに視線を交わし合う。「司令官、どうか……」という沈黙の懇願がひしひしと伝わってくる。
ガブリエルは深く息をつき、最後まで言葉にはしないものの、その目で「わかった」と示しているかのようだった。
(パルメリア様……申し訳ありません。あなたに仕えることで民を救えると思っていましたが、もう限界です――私は、あなたを裏切ります)
こうして、パルメリアが下した「血の粛清」命令は国中を恐怖と戦慄に陥れ、第二の革命 の蜂起を早める結果となった。民や兵たちの潜在的な怒りと不安は一気に燃え上がり、ユリウスをはじめとする抵抗組織はついに決行日を定める。
そしてガブリエルもまた、騎士としての誇りを捨てて主君を裏切る――つまり、「第二の革命」に加担する決意を固めようとしていた。
「あははっ……私に逆らうつもりなの? ふふっ、愚かな連中ね……」
遠く、大統領府の執務室ではパルメリアが不気味な笑みと共に新たな指令書を取りまとめている。その背後には血塗られた道が無数に広がり、あまりにも多くの命が虐げられる結果を見通せないまま、彼女は独り、王座に君臨しようとしていた。
(戦乱の炎が、ここまで大きくなるなんて……)
誰もが予感している。まもなく起こる決起こそ、この独裁を終わらせる最大にして最後のチャンスだ。一方で、失敗すれば粛清の嵐がさらに激化し、国全体が本当の地獄を見るだろう。
かくして、「血の粛清」は国中を荒廃へ導く最終段階となり、同時に第二の革命の火ぶたを切らせる引き金となっていく。
パルメリアが笑い狂いながら命じる「疑わしきは即刻処刑」の狂乱は、ユリウスやレイナー、クラリス、そしてガブリエルたちを最後の戦いへと追い立て、まさに悲壮感極まる最高潮をもたらすのだった。
次なる瞬間、血と怒り、そして裏切りが交錯し、誰もが流血の荒野へ踏み込む――しかし、その結末がどうなるかは、未だ誰も知らないままである。




