第87話 誓いと裏切り②
そんな折、保安局はガブリエルの動向をさらに厳しく監視していた。最近、部下の間で「司令官に従うのか、パルメリアに従うのか」というささやきが増えているという報告が上がっているからだ。
ある日、ガブリエルの執務室に保安局の幹部が現れ、冷ややかな声でこう言い放った。
「司令官。大統領閣下は、あなたの忠誠を信じていらっしゃるようだが、軍の末端では『第二の革命』に賛同する者がいるとも聞いております。万が一、司令官が甘い対応をなされるならば、我々が代わりに粛清を進めることになるでしょう」
露骨な脅迫にも近い。その威圧に、ガブリエルは苦渋の表情を見せるが、表情を崩さず答える。
「承知した。軍の統制は私が責任を持って徹底する。……無用な血を流さぬよう、できれば保安局も過剰な行動は控えていただきたい」
しかし、幹部は軽く眉を上げて嘲るように言う。
「無用な血、とおっしゃるのか? 司令官、反逆者を見逃せば、その血で民が苦しむ結果になる。まさかあなたが『裏切り』など考えていないとは思いますが……くれぐれもお気をつけて」
そう言い残して出ていく保安局員の足音が去るまで、ガブリエルは動けずに立ち尽くす。
明らかに保安局は、彼に対して強い疑念を抱いている。ほんの一歩踏み外せば即座に粛清される――まさに薄氷の状況だった。
さらに追い打ちをかけるように、パルメリアから直接の呼び出しがかかる。
大統領府の広い執務室。パルメリアは机に肘をつきながら、狂信的な笑みを浮かべてガブリエルを出迎える。
「ガブリエル、あなた最近どう? ふふっ……私のもとで軍を率いてくれるのは嬉しいのだけど、ちょっと『迷い』があるように見えるわね。あははっ、まさか『第二の革命』なんてものに加担するつもりじゃないでしょうね……?」
最後の問いには、狂気じみた笑いが混ざっている。その圧に、一瞬心臓がぎゅっと締め付けられる感覚を覚えながらも、ガブリエルは無表情を保つ。
「……迷いなどございません。私はただ、外征も長期化し、兵が疲弊している点を憂慮しているだけです。パルメリア様への忠誠は変わりません」
そう答えるのが精一杯だった。パルメリアはうろんげに瞳を細めるが、やがて「あははっ」と笑って立ち上がり、ガブリエルの肩に手を置く。
「ふふっ……そうよね。あなたは昔から私に忠実な騎士だったわ。……だから、さらに期待しているの。もう少ししたら、また大きな外征をかけるわよ。あははっ、思い知るがいいわ、世界よ……!」
目の奥に宿る狂気を見て、ガブリエルはそっとまぶたを伏せる。ここで抵抗すれば、この場で斬り殺されるかもしれないし、保安局に囲まれて終わるだろう。
だから何もできない。何も言えない。――少なくとも今は。
――しかし、この瞬間、彼の中で何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
(もうだめだ。これ以上、パルメリア様を守ることなどできない。私は彼女のために騎士道を捧げたつもりが、いつしか「民を踏みにじる道具」となってしまった。ならば、いっそ……)
静かに心を決めかけたところで、パルメリアが一層近づき、耳元でささやくように言う。
「ふふっ……ガブリエル、あなたがもし私を裏切れば、どうなるかわかるわよね? あははっ、いくら強い騎士でも、私に刃向かって勝てると思う? ……でも、あなたが私に従う限り、栄光はすべてあなたのものよ」
ぞっとするほどの冷ややかな甘言。愛情と暴力がないまぜになった視線が、彼を射抜く。その言葉を聞きながら、ガブリエルは唇をきつく結ぶ。
「……私は、誓いを忘れたわけではありません。ご心配なく、パルメリア様」
そう答える声は震えていないが、内心は激しく揺れ動いていた。誓いに縛られ、同時にそれを自分で破ろうとしている矛盾――。まさに「裏切り」が彼の頭の中を支配しつつあるのだ。
「ならいいわ。あははっ……」
パルメリアは満足げに笑い、彼を解放するように一歩下がった。
ガブリエルはその隙をついて敬礼し、執務室を出て行く。背に感じる彼女の視線が突き刺すように重く、まるで「裏切り者を逃さない」と言わんばかりに後を追っているかのようだ。
執務室を出たあと、ガブリエルは軍司令部へ戻った。表面上は何ごともないふうを装うが、その内心には嵐が吹き荒れている。
部下がいつものように報告してくるが、彼の耳にはあまり入ってこない。頭の中には、パルメリアの狂った笑いと「第二の革命をどうするか」という問いだけがぐるぐる巡っていた。
(私は何を守る騎士なのか? このまま外征に兵を駆り出し、民を飢えさせ、反抗する者を粛清する――そんな「守る」はあり得ない。でも、彼女を裏切ることは、誓いに反する……)
葛藤は行き場がない。もし誓いを貫けば、多くの命が失われる。もし裏切れば、パルメリアを死地へ誘うことにもなりかねない。
ひどく冷たい汗を背に感じながら、ガブリエルは書類を握り、部下たちへ指示を出す。そこにほんのわずかな迷いでも見せれば、彼自身が危険にさらされるのは明白だ。
だが、ほどなくして彼の手元にもう一通の密書が届いた。差出人は明記されていないが、おそらくはユリウスたち「第二の革命」を計画するメンバーだろう。
その内容は、ごく短く 「X日の夜、首都で一斉蜂起が起こる。司令官が加われば流血を最小限に抑えられる」とだけ書かれている。
(やはり来るべき時が来たか……X日の夜……)
ガブリエルはその紙を読み終えるとすぐ、手のひらで握り潰した。形だけの破棄だが、保安局の目を恐れて念入りに痕跡を消さねばならない。
(X日の夜……それが本当に最後のチャンスなのか。パルメリア様を、あの狂信から救うための。……いや、「救う」なんて都合のいい言葉だな。実際には「倒す」しかないのかもしれない)
歯を食いしばる。その覚悟を固めるには、あまりに大きな痛みを伴う。
ここで彼が動かなければ、国中の抵抗勢力はほぼ間違いなく血の粛清に飲み込まれるだろう。そして、民はさらに悲惨な飢餓と外征の中で死んでいく。だが、動けばパルメリアを裏切ることになる。
「司令官、どうかこの地獄を終わらせてください。私たちはあなたを信じています」
わずかに泣き声を交えた兵たちの言葉を思い出し、ガブリエルは剣の柄を強く握りしめる。
そして、彼は静かに立ち上がり、司令部の窓から外を見下ろす。そこには薄汚れた街並みがあり、かつて王政打倒のときは活気に満ちていたはずの景色だ。今は貧困と悲鳴の上に成り立ち、夜になれば「第二の革命」のビラが貼られるという矛盾した光景。
(私が守りたかったのは、こういう街ではない。なのに、私が主君を守る誓いを守る限り、この街はさらに壊れていく。どちらを選んでも、誓いを裏切ることになるのか……)
翌日、ガブリエルはまたしても大統領府へ呼び出しを受ける。パルメリアは執務室で書類をめくりながら、小さく笑いをこぼしていた。
「ふふっ……ガブリエル、あなた随分と顔色が悪いじゃない。何か悩みでもあるの? でもまあ、あなたの気持ちはどうでもいい。私が『外征をさらに進める』と言ったら、あなたは従うだけよね?」
その「ふふっ」という笑いに背筋が凍る。ガブリエルは礼をしながら短く答える。
「……もちろん、パルメリア様の命令に従います。ただ、兵たちの疲労が極度に達しております。補給や休養を与えねば、部隊の士気が……」
「ふふっ、士気? そんなもの気にしていては、敵にやられるだけ。強い意志があれば大丈夫だわ。あははっ……私を舐めると痛い目に遭うのよ?」
その冷たい目線に、言葉が出ない。彼女はもう誰の意見も求めていない。狂信が頂点に達し、自分こそが正義だと信じて疑わないのだ。
(これほどまでに変わってしまうなんて……王政を倒した時の優しさは、一体どこへ消えた?)
ガブリエルの胸は張り裂けそうな思いでいっぱいだったが、何も言えない。二人の間にかつてあった「信頼」という名の絆は、今や破滅的な寂寥を漂わせていた。
パルメリアは手をひらひらと振り、彼を追い払うような仕草をする。
「もう行っていいわ。ふふっ……ガブリエル、あなたが私を裏切るなんてあり得ないものね? あなたは私の忠実なる騎士でしょう?」
言葉の裏には明らかな挑発がある。しかし、ガブリエルは微動だにせず、ただ一言「忠誠は変わりません」と答え、踵を返して部屋を出る。
その背に、パルメリアの不気味な笑いが聞こえるが、彼は振り返らない。ほんの数秒立ち止まろうとしたが、ここで感情を表せば危険だと理性が働く。
(彼女はもう、誰も信じていないのかもしれない。私を疑いながらも引き留めているのだろう。……だが私は……)
出入り口の扉を静かに閉めたあと、ガブリエルは廊下で眉をひそめ、深く息を吐いた。脳裏には「X日の夜」という言葉が閃く。あの時、ユリウスやレイナーが決意した蜂起の日が近づいているのだ。




