第87話 誓いと裏切り①
かつて王政を倒した革命の勢いは、今や腐敗した独裁へと形を変え、外征と粛清によって国内外の混乱を引き起こしていた。長引く戦争と重税、秘密警察の横行が民を苦しめ、街には怨嗟と絶望が満ちている。
――「第二の革命」が秒読みの段階に入った今、この国には、かつて王政を倒した時よりも重苦しく深い「変革の波」が静かに押し寄せようとしていた。中心にいるのは、王政崩壊の立役者でありながら今や狂信の独裁者と化したパルメリア。その圧政を止めようと、ユリウス、クラリス、レイナーらは水面下で再び連携し、同時多発的な蜂起を起こす準備を進めている。
だがここにもう一人、痛切な苦悩を抱える男がいた。
パルメリアへの「誓い」を捨てられず、にもかかわらず、このままでは民をさらなる犠牲へ追いやると知りながらも、司令官としての役目を果たすしかないガブリエル――。
彼が「誓い」を守るのか、あるいは「裏切り」を選ぶのかが、この国の未来を大きく左右する。そんな瀬戸際で、運命は容赦なく、やがて彼に決断を迫る瞬間をもたらそうとしていた。
首都近郊の軍司令部。荒れ果てた外征から戻ったばかりの将兵が次々と倒れ込み、負傷者は医務室にあふれている。今や、王政を倒した頃の「凛々しい騎士団」の面影はない。あるのは疲労困憊の兵たち、物資不足と徴発にあえぐ民衆、そして絶え間ない保安局の監視――。
そんな状況の中、ガブリエルは顔をしかめながら、机に広げられた報告書に目を走らせていた。
王政を倒したころ、彼はパルメリアの忠実なる騎士として誇りを持ち、民を守るために戦う自分の剣を信じていた。だが今、その誇りは見る影もなく傷ついている。「守るはずだった」民衆を、いまや粛清や外征の名のもとでさらに追いつめる――そんな現実に立ち会うたび、胸が痛む。
(このまま続ければ、国は滅びる。……それでも私は、剣を捨てられないのか?)
自身への問いかけが頭をかき乱す。少しでも迷いを表に出せば、保安局がすかさず動くのは明白だ。彼が司令官の地位にあるのは、パルメリアの命令に従うからこそ。いっそ退けばいいのではないかと何度も思ったが、そうなれば部下もろとも粛清される可能性が高い。
さらに言えば、「あのパルメリア」を裏切ってしまうことに、深い罪悪感を拭えないのが、ガブリエルという人間だった。王政時代、腐敗貴族に苦しむ民を救おうと決起したパルメリアの誠実さを、彼ははっきり覚えている。それを捨て去るという行為が、どうにも踏み切れないのだ。
「司令官、これが次の外征計画です。参謀本部からは早期の出撃が求められています」
副官が細い声で報告書を差し出す。ガブリエルが受け取ると、それには王政時代にも聞いたことのないほど急進的な作戦が並んでいた。消耗しきった兵をまた動員し、さらなる領土を狙う、という無謀とも思える侵略の案が堂々と書かれている。
もはや、それが「国防」なのか「侵略」なのかの区別さえつかないほど、国中がパルメリアの狂信に押されているのがよくわかった。
(こんな無謀を続ければ、兵も民も崩壊する……なぜパルメリア様は気づかない? いや、もはや気づけないほど心が壊れているのか……?)
ガブリエルは胸の中で呻くが、口には出さない。出せば、その一言で裏切りを疑われる時代だ。
「了解した。副官、ひとまず下がってくれ。……あとの指示は後ほど伝える」
苦虫を噛み潰したような表情のまま、副官を部屋から出して扉を閉めると、ガブリエルはひとり床に膝をついて深いため息をついた。
自分が目を逸らしている間にも、王政を倒したあの革命をともに生き抜いた仲間たちは次々と姿を消し、ある者は粛清され、ある者は反乱を画策しているという噂も聞こえてくる。
(……第二の革命、か。ユリウスたちが準備しているらしいが、私が本当にそれに加担するのか。いや、私が加担しなければ、多くの血が流れるだろう。加担すればパルメリア様を裏切る……誓いを踏みにじることになる)
頭を抱えてうずくまりそうになる。
かつての「騎士道精神」はどこへ行った? それは「民を守るための剣」だという信念だったが、今や「民を傷つける剣」と化し、王政打倒の英雄としての名声は「独裁の手先」へと転じている。
そんな痛みを抱えながら、ガブリエルはいつまでも立ち上がれないでいた。
軍司令部には、いつしかガブリエルの部下が何人か集まっていた。若い将校や騎士見習いらが、司令官の言葉を待つでもなく、ただ沈黙している。
すると一人の将校が意を決して口を開いた。
「司令官……もし、本当に『第二の革命』が起こるなら、私たちはどう動くべきでしょう。兵の中には、もうパルメリア大統領に従いたくないという者が多いんです。いつでも決起したいという声すらある」
その発言に周囲は凍り付いた。たとえ司令官の部屋とはいえ、「第二の革命への参加」を匂わす言葉が出るとは誰も想像していなかったからだ。
ガブリエルは一瞬息を呑みながらも、動揺を表に出せないよう必死に耐える。もしここで「賛同する」と言えば、その一言が保安局の耳に届けば自分含め全員が粛清される危険がある。
「……軽々しくそんなことを口にするな。お前たちの気持ちはわかるが、ここは軍司令部だ。言葉に気をつけろ」
低く押し殺した声でそれだけ言うと、若い将校はすぐに引き下がった。だが、その表情には「司令官こそ何とかしてほしい」という期待と悲しみが交錯している。
それはまさに、ガブリエルが受け止めるべき苦悩だった。自分の部下がこうまで追い詰められているのに、何もしてやれないのか――。
(私さえ踏み切れば、この連鎖は止められるのかもしれない……。だが、その時、パルメリア様を守る誓いはどうなる?)
しかも保安局の存在がある以上、軽率に動けば部下たちが犠牲になるかもしれない。その両方がガブリエルの心に重くのしかかる。
彼は部下たちに厳しい口調で言い渡す。
「お前たち……もうこれ以上、危険な話はするな。私には何も聞かなかったことにしておく。今はそれしか言えない」
部下たちは唇を噛んで敬礼し、その場を後にする。軍司令官として厳しい姿勢を示しつつ、それでもあえて部下を罰することはしない。
その対応を見て、部下は「司令官も実はパルメリアに従いたくないのでは?」と薄々感じているが、当のガブリエルは「これ以上引き裂かれたくない」と心の奥で叫びながらうつむくだけだ。
ガブリエルは夜になると、執務室からこっそり姿を消し、司令部の裏手にある小さな礼拝堂へ足を運ぶことが増えていた。そこは騎士団時代から利用されていた場所で、王政を倒した後も放置されていたが、彼はその片隅に落ち着きを求めていた。
闇に包まれた礼拝堂の中で、思い返すのはパルメリアと交わしたあの日の誓いだ。
「私は、パルメリア様の盾となり剣となり、命を懸けてお護りすることをここに誓います。たとえどれほど強大な敵が立ち塞がろうと、私が斬り裂いてみせる。……それが、私自身の正義を貫くことでもあります」
あの頃のパルメリアは、確かに輝いていた。勇気と慈悲の心を持ち、王政の腐敗を容赦なく断ち切る力があった。その姿に心打たれ、彼女に剣を捧げた日こそ、ガブリエルにとって誇り高き原点だった。
だが今、その原点が崩れ去っている。彼女は「民を守る」どころか、粛清と外征でさらに多くを苦しめ、もはや狂信の笑みを浮かべるばかりになってしまった。
「……それでも、私は誓いを捨てられないのか。どれほど仲間が去っても、パルメリア様のそばを離れたくない? ……私は何と愚かなんだ」
独りごちて、目を伏せる。あの時の熱い想いは、今では独裁への加担という形で反転し、苦痛を与えている。「王政を倒すために生きる」と同じくらい、「パルメリアに従う」ことがガブリエルのアイデンティティとなってしまったからだ。
しかし、一方で自分の部下や民が「第二の革命」へ動き始めている事実を無視できない。これ以上、心ある兵士たちを無為に戦火に投げ込み、民衆を粛清するのは、騎士道とは呼べまい。
(パルメリア様を止める。それが結局、この国を救う唯一の方法かもしれない。……でも、それは「裏切り」だ。これまでの誓いに反する行為だ)
重くのしかかる二つの選択肢の狭間。
どちらへ行っても彼の心は壊れるだろう――自分が抱えてきた「守るべき相手」を、あるいは「守るべき民」を裏切る形になるのだから。
(主君を殺す、などあってはならない背信行為。だが、このまま進めばもっと大勢が死ぬ。どちらが正しい?)
深夜の礼拝堂の中で、彼は乱れた呼吸を抑えきれなくなる。剣を握った手が震え、その刃先がかつて王政の腐敗を断ち切った記憶を呼び起こす。
(あの時、私は王政を「倒す」ことで多くの命を救ったはずだ。ならば今回も、「倒すべき相手」が目の前にいるのか……?)




