第86話 決断の時②
ちょうど同じころ、パルメリアからガブリエルへ「次の出撃計画を早める」という連絡が届いた。
司令部の部屋で部下を下がらせ、ひとり書簡を読み終えたガブリエルは唇を噛む。
「X日より前に大軍を動かすのか……? これでは『第二の革命』と真っ向からぶつかることになる。……どちらの側につくにせよ、地獄だな」
もしX日の夜が近づく前にガブリエルが外征に出てしまえば、反乱軍への支援はできなくなる。しかし、首都に残ればパルメリアから疑われ、これまた厳しい状況になるだろう。彼は決断を迫られている。
(私は何のために剣を握っているんだ。あの人を守るため? でも、守った先に民が救われるか? ……いや、わかってる。このままでは民は救われない。でも……私が裏切れば、パルメリア様を傷つけることにもなる)
ガブリエルの胸には、今なお消えぬ忠誠心があり、同時に「これ以上の殺戮をやめさせたい」という願いもある。だが、二つを同時に満たすことは不可能に思えた。
こうして司令官として「X日の夜」に対応するか否か――それが、彼の魂を引き裂く問題だった。
X日の数日前、ユリウス、クラリス、レイナーは再び倉庫街で落ち合った。今回は、都市と農村、さらに軍内部の賛同者から集まった代表者が二十人ほど同席している。
地図や書類が床に敷かれ、一斉蜂起の段取りが緊迫した声で話し合われる。
「よし、それぞれの地域では夜間に合図を出すんだ。保安局が巡回ルートを変えたとしても対応できるよう、複数の拠点で松明を上げる。農村側もタイミングを合わせて、徴発部隊を襲撃するんだ」
ユリウスの言葉に、地方代表がうなずく。
「わかりました。うちの村でも何人かが武器を用意しています。王政を倒す時に使った古いものですが、これで十分です」
クラリスは後方支援について補足する。
「もし負傷者が出ても、私の仲間が各地に医療拠点を用意します。ここも見破られないよう隠してあるので、緊急時にはそこへ運び込んでください。物資は不足が予想されますが、最大限やってみます」
「ありがとう。レイナー、そっちの方はどうだ?」
ユリウスが問うと、レイナーは深いため息をついて応じる。
「パルメリアは外征の準備を急いでるけど、ちょうど『X日の夜』の前あたりに軍が動きそうなんだ。でも、大規模移動がある分、首都は手薄になる可能性も高い。だから逆にチャンスだ。僕は保安局の大隊がどこへ配置されるかをつかんで、君たちに情報を送るよ」
その言葉に皆がうなずき、計画に自信を持ち始める。だが、同時にリスクも承知している。周辺諸国との戦況次第で首都に兵を戻される可能性だってあるし、保安局が内通者を用いて反乱計画を先回りするかもしれない。
「一瞬で終わるかもしれないし、成功するかもしれない。賭けだな……」
ユリウスは苦い顔でつぶやく。若い頃に王政と対峙したときとは違い、彼にはもう熱狂だけが頼りにはなっていない。痛みや苦悩を重ねたぶんだけ、彼の決意は固く、しかし恐れも大きい。
各地の代表たちが帰ったあと、クラリスは残って書類を整理し、レイナーとユリウスは最後のすり合わせを行っていた。
そこには、表情には出さないが緊張と期待が入り混じる独特の空気が漂う。
「もし失敗したら……俺たち全員、間違いなく処刑だ。それをわかって参加してるとはいえ、本当に胸が痛むな」
「仕方ないよ、ユリウス。みんな『もう後がない』って思ってるんだ。どのみち粛清か飢え死にか、戦争で死ぬか。それなら、自分で運命を切り開くしかないんだろうね」
ユリウスは唇を噛む。そう、これは誰もが失うものを覚悟した上での反旗なのだ。かつて王政を倒した時よりも大きな痛みを伴うかもしれない――だが、それを恐れて黙ることは、もっと残酷な結末を招く。
「パルメリア……彼女は、もう誰の声も聞こえないんだろうな。彼女が笑う姿を見るたび、こんな方法でしか止められないのが悔しくて仕方ない……」
レイナーは小さく声を落とす。ユリウスは視線を伏せ、いつになく沈鬱な表情を浮かべるが、やがて顔を上げる。
「俺たちが止める。彼女がどれだけ強大であろうと、民衆の怒りと悲しみをまとえば、必ず勝てるはずだ。……何があっても最後までやろう」
「わかった。僕も……あの頃と同じように、いや、それ以上に全力を尽くすよ」
そうして二人は握手を交わし、この日の打ち合わせを終える。クラリスは離れた場所でその様子を眺め、涙をこぼしそうになっていた。「どうしてこうなったのか」と嘆きながらも、それでも前に進むしかないと自分に言い聞かせる。
翌日から、反乱軍の最終準備が一斉に動き出し、誰もが「X日の夜」を目指して息を詰めるように活動することになる。
一方で、パルメリアは外征の成果を宣伝すべく、再び首都の広場で演説を行う計画を立てていた。王政打倒のころと同じように民衆を前に立ち、軍がどれだけ勝ち続けているかを語ることで、国内の不安を押しつぶそうという腹づもりである。
しかし、実際には戦況は厳しくなっており、周辺諸国との包囲網が形成されつつある。多くの将校が危機感を示すが、パルメリアは「先手を打って敵を粉砕すればいい」と耳を貸さない。
広場の仮設台に立った彼女は、よく通る声で言い放つ。
「皆、安心なさい。私たちは必ず勝つわ。……ふふっ、外の連合軍なんて臆病者の寄せ集めだわ。あははっ、怖がる必要なんてないの。私の指揮のもと、全てが上手くいくのだから! あはははははっ!」
その笑いは、かつて王政に立ち向かった頃の真剣な情熱とはまるで異質の、不気味な狂熱が混ざったもの。集まった民衆の中には恐る恐る拍手を送る者もいるが、大半は下を向いて息を殺している。
街角ではビラが貼られ、「X日の夜」を待つ抵抗組織のメンバーがじっとその演説を見つめ、歯を食いしばる。
「あれが……私たちのかつての希望だったのか?」
そんな疑問が誰の胸にも浮かぶ。同じ口から王政を倒す正義が語られた時代を思えば、今の姿はあまりにも悲しい。
演説が終わり、パルメリアは大統領府へ戻ると、閣僚たちを前に外征継続を示す書簡に次々と署名を行う。軍への補給、保安局への追加権限、さらに徴兵枠の拡大――いずれも民衆にさらなる苦痛を与えるが、彼女は唇にかすかな笑みを浮かべて言い放つ。
「ふふっ……こうでもしなければ、この国は守れないわ。弱気になった瞬間、周りの連合軍が攻め込んでくる。そうなれば民はもっと悲惨な目に遭う。あははっ、やはり私のやり方が唯一の正解よ……!」
閣僚の誰も反論しない。保安局が後ろに控え、反対意見が出れば粛清されるのは目に見えている。そんな光景をレイナーは横目で見つめながら、胸の奥で「X日の夜」を思い起こしていた。
パルメリアの笑いが響く室内。しかしそこに漂うのは、王政を倒した時のような未来への希望など微塵も感じられない。
X日の数日前、レイナーはユリウスのもとへ最後の連絡を入れる。使いの者が倉庫に到着し、ユリウスとクラリスが出迎えた。
密書には、首都の軍配置や保安局の動きが克明に記されている。そして、外征が本格化する直前に一部兵が首都から離れ、パルメリアは『』大統領府を最小限の警護で守る』との情報が書かれていた。
「X日の夜、彼女は外征準備に追われている。首都の戦力は薄くなる。まさにあの夜が、唯一無二の機会だ」
この一文が、二人の心を大きく揺さぶる。ついに——という気持ちが高まってくる。
「……やるしかありませんね。ここで動かなければ、もう二度とこの国を取り戻せません」
クラリスがしっかりと資料を読み込んでつぶやくと、ユリウスも強くうなずく。
「これなら勝算はある。とはいえ、保安局や親衛隊はまだ残っているし、厳しい戦いになるのは確実だ。……でも、やるしかないんだ」
そう言いながら、ユリウスは拳を握りしめる。かつての戦いとは比べ物にならない恐怖と絶望があるが、それを超えてでも進むしかないという意志が彼を支えていた。
同時に、彼らの心に重くのしかかるのは「ガブリエルがどうするか」という問題だ。ユリウスは短く息を吐き、地図の中央――大統領府近くにある軍司令部を指差す。
「首都で一斉蜂起する際、もし彼がこっちに協力してくれれば、圧倒的に有利になる。でも、司令官が敵に回れば、戦況は一変する。……少なくとも、中立でいてほしいところだな」
「そうね。でも、私たちは彼に何の連絡も取れないままだわ。あまりに危険が大きすぎるもの」
クラリスは唇を噛む。先日、ユリウスがガブリエル宛に送った書簡の返事は一切ない。彼がそれをどう受け止めたかすらわからないのだ。
「信じるしかないよ。ガブリエルの『騎士道』がまだ生きているなら、パルメリアの暴政に加担はしないはずだ。もし彼が『俺たちを裏切る』なら……その時は、本当に大きな犠牲が出るだろう」
ユリウスがそう言うと、クラリスは小さくうなずき、視線を落とす。その先にあるのは絶望か、それともわずかな希望か。誰にもわからない。しかし、決断の夜が目前に迫った今、彼らはどちらにせよ前へ進むしかないのだ。




