第1話 悪役令嬢の運命②
記憶の片隅にあった乙女ゲームのストーリーがじわじわと甦る。タイトルは『エターナルプリンセス』。明るい恋愛要素だけでなく、陰謀や政治劇が展開されるやり込み系の乙女ゲームだ。
(でも、私、最後までプレイしてない……バッドエンドがいくつもあるって聞いてたけど、細かい展開までは知らなかった。こんな大役の悪役令嬢に転生しちゃうなんて……!)
打ちのめされるような衝撃で胸が苦しくなる。しかも「悪役令嬢」と言われるパルメリア・コレットは、ヒロインを妨害して恋愛模様をかき乱す存在。物語の進み方によっては、取り返しのつかない悲惨な結末が待っているはずだ。
とはいえ、今の私は確かに「生きて」いる。前の世界で確かに事故に遭って、もう目を覚ますことなどないはずだったのに。
(だったら……今度こそ、生き延びてみせる。追放エンドも処刑エンドも、そんなのゴメンだわ)
グッと拳を握り締めた拍子に、侍女がこちらにハッとして視線をやる。何かを言いかけたが、私が小さく首を振ったのを見て、彼女は慌てて「失礼いたしました」とペコリと頭を下げた。どうやら、私が少し激昂していると勘違いしたらしい。
「ご心配には及びませんわ。わたくし、ほんの少しぼうっとしてしまいましたの……」
自分でも驚くほどスムーズに出た「貴族風」の口調に一瞬だけ苦笑が漏れる。会社員時代のフランクな言い回しに比べると、まるでドラマか映画の台本を読んでいるみたい。
「かしこまりました。では何かございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
侍女が部屋を出ると、私はその場にへたりこむようにベッドへ腰を下ろした。
(事故で死んだはずの私が、「ゲームの悪役令嬢」に転生……? あり得ないし、夢みたい。でも、ちゃんと現実の感触がある。痛みだって、こうして体をつかめばはっきり感じる……)
怖い。正直に言えば、今すぐ逃げ出したい。でも、この状況から逃れようがないのは、既に理解している。
(もしゲームのシナリオ通りに動いたら、待っているのは破滅の運命。私が破滅するだけならまだいいけど、もう二度と家族にも会えない世界だし――でも、せっかくまた生きてるんだもの。諦めるわけにはいかないよね)
そう決意してみても、胸はバクバクしている。転生前の現実よりも遥かに華やかな世界に放り込まれたというのに、自分は何の準備もできていない。
「でも……ここでやらなきゃ誰がやるの?」
自然に口をついた言葉は、自分への叱咤だった。前の世界ではただ「働かされるだけ」で精一杯だった私。何をしようにも限界で、あの事故が起きなければ、また満員電車に揺られて仕事漬けの日々を繰り返していたかもしれない。
だが今は違う。私がパルメリアとして生き抜いて、この運命を変えてやらなければ――。かすかな恐怖を押し込めながら、立ち上がってベッドの脇に置かれていたシルクのローブを羽織る。体の動きは驚くほど軽い。
「……よし。自分の姿をしっかり確かめておこう。何ができるのか、整理しないと」
鏡へ戻り、金色の髪を少し触れてみる。ふわりとして柔らかく、そして肌は驚くほどスベスベだ。見れば見るほど、これが「自分の体」だとは思えない。
けれど、ぼんやりとした頭を振り払い、もう一度心に言い聞かせる。
(命を落としかけたのに、もう一度生きられるかもしれない。その奇跡を無駄にはできない――私がやるしかない)
ゲームで断片的に覚えているストーリーによれば、パルメリア・コレットは華やかなドレスを着こなし、派手な言動でヒロインをいじめたり、王太子に執着して周囲から反感を買う存在……らしい。おまけに態度が大きいところを指摘されて破滅の道を歩むルートが多い。
(だけど、そのルートを踏まなきゃいいんでしょ? 昔の私だって、社会人としていろんな無理難題に耐えてきたんだもの。少しばかり傲慢な令嬢を演じるくらい……いや、ここはむしろ令嬢らしく振る舞う方が大事かも)
転生前の仕事経験から培った雑学やコミュニケーション力が、こんな形で活きるとは思わなかった。まったく予期しない人生の再スタートだけど、ここで腐っていては本当に破滅してしまう。
「絶対に……追放も処刑もされるもんですか」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた時、また小さなノックが響く。先ほどの侍女の声が、ドア越しに優しく聞こえてきた。
「お嬢様、ご朝食をお部屋で召し上がりますか? それともホールへいらっしゃいますか? 今日はお顔色が優れぬようでしたら、無理をなさらなくても……」
一言一言が丁寧で、使用人が私に敬意を表しているのが伝わる。会社員だった自分からすれば、そんな扱いを受けるなど夢のようだ。けれど、今の私にはそれだけの責任と立場があるということでもある。
「……そうね。まずは少しだけお話をしてから考えるわ。入っていいわよ」
口を開けば自然と貴族じみた言葉がこぼれ出ることに、わずかな違和感を覚えながらも、伸ばした手がかすかに震えているのを感じた。
(怖い。でも逃げない。ここはゲームの世界、だけど現実……。私の名前はパルメリア・コレット。何があろうと、自分の運命は自分で切り拓くんだから)
そう胸の中で宣言すると、扉がゆっくりと開き、侍女が静かに部屋へ入ってくる。彼女はテーブルの上に朝食の用意をしながら、コレット家の近況や本日の予定を気遣うように話し始めた。
普通なら当たり前にこなしている「貴族令嬢」のルーティンも、私には全てが新鮮だ。だけど、そのひとつひとつを落ち着いて受け止めることで、この世界に慣れていく必要がある。そうしなければ、破滅の未来なんて、あっという間に目の前に迫ってくるだろうから。
(負けるわけにはいかない。だって、もう一度手にしたこの命……簡単に捨てるなんて、そんなの絶対に嫌)
胸の奥で静かに湧き上がる決意を感じながら、私は「パルメリア・コレット」として人生を歩むことを選ぶ。前世の疲れ切った会社員から大きく変わる道のりは険しいかもしれない。しかし、この柔らかなベッドと煌びやかな部屋に囲まれつつも、決して油断できない世界だからこそ、生き抜くための覚悟はより一層強くなる。
ドレスの裾を少し持ち上げ、ベッドから足を下ろすと、まるで舞台に上がる役者のような気分になる。これから先、どれだけの困難が待っていようとも、自分の未来は自分の手で変えてみせる――そう言い聞かせながら、豪華な鏡の前に立ち、大きく息を吸い込んだ。
「……私がパルメリアなら、私なりのやり方でこの運命を変えるまでよ」
侍女が怪訝そうに首をかしげているが、聞こえていない振りを貫く。そして、もう一度、自分の姿をしっかり見据える。金の髪を揺らし、青い瞳でまっすぐに前を見据えるその姿――そこにいたのは確かに、乙女ゲームの世界に生きる貴族令嬢。しかし、私の中には転生前の「自分」がはっきりと息づいている。
(追放ルート……? 処刑ルート……? そんなバッドエンドに負けるもんですか)
まだ何もわからない。けれど、一歩ずつ行動するしかない。前の世界で死にかけた私だからこそ、もう恐れるものは少ないはず。
こうして、死の淵から蘇った私――もとい、パルメリア・コレットの物語が動き出す。自分の手で未来を切り拓き、この世界の運命を握るのは、ほかでもない私自身なのだ。
揺れるレースのカーテン越しに、朝の光が優しく差し込んでくる。ここは紛れもなくゲームの世界――けれど、これから待ち受ける出来事はシナリオ通りではないかもしれない。私は恐怖と期待を抱えながら、小さくつぶやいた。
「絶対に、追放なんかされない。ここでの人生は、私が自分で選ぶんだから」
そう強く心に誓った瞬間、また一歩、新しい時が始まった。事故の苦しみも、かつての疲弊も、今は遠い記憶に過ぎない。この世界での二度目の人生こそ、決して無駄にはしない――そう思いながら、私はハッと背筋を伸ばし、まるで全てを受け止めるかのように朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。