第9話 基礎教育の普及②
学舎での様子を確認し終えたパルメリアが建物を出ると、少し離れたところで幼馴染のレイナー・ブラントが待っていた。彼はときどきこっそりこの学舎を見に来て、子どもたちの笑顔に安堵するのが習慣になりつつあるらしい。
彼がパルメリアに視線を合わせると、軽く肩をすくめながら話しかける。
「まさか本当に教育まで手を伸ばすとはね。君の大胆さには驚かされるばかりだ。……でも、みんな楽しそうだよ。特に子どもたちが、目を輝かせて文字を書いている姿を見てると、なんだか嬉しくなる」
パルメリアは微笑しながら、柔らかい声で応じる。
「私も最初はどうなるか分からなかったわ。けれど、想像以上に子どもたちが真剣で、彼らの吸収力はすごい。誰かが言うように『身分の差がなくなる』とかいう杞憂はあまり気にしていないの」
「貴族社会からは反発されないのかい?」
レイナーが少し心配げに問うと、パルメリアは軽く首を振る。
「されてるわよ。でも、もう慣れたわ。正直、保守派の視線は気になるけれど……領地のためを思うなら、学ぶ機会が奪われることこそが問題だと思ってる。文字と計算ができれば、将来的に商売も広がるでしょうし、農民の暮らしを支える基盤にもなるはず」
レイナーは彼女の言葉に深くうなずき、「そうだね……君の考えは筋が通ってる」とつぶやいた。彼は視線を学舎の窓に移し、子どもたちがまだ楽しげに会話しているのを見つめながら、どこか安堵の笑みを浮かべている。
学舎の前には、すでに数人の親が子どもを迎えに来ていた。ある母親は子どもの書いた紙を見て、「こんな字が読めるようになるなんて……」と目を丸くしている。父親らしき男が「へえ、こんなことができるようになったのか?」と照れ臭そうに頭をかいている場面もある。
そんな微笑ましい光景を横目に、パルメリアはそっとため息をつきつつも、小さく笑みをこぼした。農業改革が種をまき、基礎教育の普及がさらに未来への芽を育てる――今、わずかながらに見え始めたこの光が、やがて領地全体を照らす大きな希望につながるかもしれない。
(子どもたちにとって、文字や計算を覚えることがどれほど大きな力になるか、私は前の世界で知っている。ここではそれが当たり前じゃない分、きっと大きな意味を持つはず)
同時に、パルメリアは覚悟を新たにする。保守派の貴族たちがこれ以上黙っているはずもない。彼らが「格差の維持」を理由に妨害してくる可能性は非常に高い。だが、ここで道を曲げるわけにはいかないのだ。彼女は学問の普及こそが領地の底上げになると、確信しているから。
後日、パルメリアの耳には「学舎で教えるのをやめろ」という匿名の手紙が送られてきたり、家臣の中にも「お嬢様、これ以上の露骨な平民教育は危険かと……」と進言してきたりする者が出てきた。彼らは「身分の逆転が起きる」「読めなくていいものを読ませるなんて無駄」と盛んに訴える。
しかし、すでに動き出した学舎は軌道に乗りかけている。そこには子どもたちの楽しそうな笑顔があり、さらに大人たちも「自分たちも少し読み書きを知りたい」と興味を持ち始めるケースが生まれつつあった。パルメリアはそれらの報告に目を通し、むしろさらに拡大の可能性を感じている。
(守るべきは貴族だけの既得権益じゃない。領地全体を豊かにするには、知識を分かち合うことが不可欠なんだ)
彼女はそう確信し、保守派からの牽制に怯む気配を見せない。家臣がどれだけ「やめたほうがいい」と言っても、初等教育がもたらす意義を確信している以上、一歩も引かないのだ。
そんなある晩、パルメリアは執務室で一人静かに資料を読み返していた。学舎の運営記録や、今後の拡大計画の草案などが机に広がり、ランプの柔らかな灯りが文字をほのかに照らしている。
彼女はペンを取り上げ、紙の余白に何やら書き込んでいる。農業改革だけでなく、教育の整備、教師の養成、財政のやりくり――一つひとつの課題をどう解決するか、頭を悩ませる要素は尽きない。
それでも、先日の学舎で見た子どもたちの無邪気な笑顔を思い出すだけで、パルメリアは不思議と力が湧いてくるのを感じた。あの子たちが文字を学び、自分の名前や身近な単語を自在に扱えるようになれば、この国の未来も少しは変わるかもしれない――そう思うと、疲労など一瞬で吹き飛ぶ。
(誰かが邪魔しても、私はもう止まらない。農業改革だけではなく、教育の普及こそが本当の“底上げ”につながる。この領地を変えるなら、私がやらなければ)
彼女はペン先を黒いインクに沈め、すぐにさらさらと紙面にアイデアを書き加える。夜の深い静寂の中、ランプの灯が小刻みに揺れ、陰影が天井に溶けていく。
やがて彼女は満足げにひとつ息をつき、机の端に積まれた書類の山を整頓した。外からは虫の声だけがかすかに聞こえる。これが今のパルメリアの日常だった。長時間の執務に加え、改革のための根回しと段取り――前世の社畜生活を彷彿とさせる忙しさでも、彼女はどこか充実感を覚えている。
そして、朝になれば再び学舎で子どもたちが文字を学び、これを守ろうとする領民と、反対しようとする保守派がぶつかる日々が始まるだろう。だが、パルメリアはその困難を恐れてはいない。
教室の隅に残る、小さな文字表と子どもたちの拙い練習帳。それらが示す光景は、かつての貴族令嬢のあり方とまるで違う。身分による序列を保とうとする者たちの非難や嘲笑を受けても、彼女が後退する理由は何もない。
(農業改革が大地を育てるなら、教育の普及は人を育てる。同時に、私自身もここで学ばなければ)
パルメリアは心の中でそうつぶやき、自分の決意を再度固めた。もはや単なる「追放回避」を超え、「領地全体を底上げする」という壮大な理想が彼女を突き動かしている。それが、やがて王国全体を揺るがす大きな潮流へと発展することを、まだ周囲の多くが気づいていない。
しかし、学舎の子どもたちは無邪気に文字の世界へと踏み出し、少しずつ力をつけ始めている。毎晩夜更けまで策を練るパルメリアの姿が示すように、彼女の決意は揺るぎないものだ。
こうして、小さな学舎から始まった「基礎教育の普及」は、農業改革とは違う形で村や領地に確かな希望をもたらしつつあった。子どもたちが始めて書いた文字や数字は、まだ拙いものかもしれないが、その一筆一筆が将来への一筋の光となる――パルメリアはそれを信じて、今日もまた、笑みをたたえて教育の現場へ足を運ぶのである。




