第78話 戦争の大義①
革命と粛清の風が吹き荒れ、共和国の姿が大きく変わってから、いったいどれほどの月日が過ぎたのか。
首都の中心部――かつては王宮がそびえていた一帯には、いまは粛清の拠点である大統領府と国家保安局の施設が並ぶ。大理石の外壁には深いひび割れが走り、革命の混乱とその後の凄惨な鎮圧劇を物語るように、ところどころ焦げ跡や破損が残っている。
その周囲に広がる通りも、昔のような活気を失い、朝晩を問わず重苦しい沈黙に支配されていた。保安局の兵士が見回る路上では、人々は急ぎ足で行き交い、互いを警戒する視線を交わす程度で誰も笑わない。あるのは密かなささやきと怯えだけだ。
そんな首都の大通りに、この日を境に新たな布告が張り出された。そこには、パルメリア・コレット大統領の名で、周辺諸国の圧政から「民衆を解放」するために外征を行う――という内容が記されている。
この布告を目にした市民たちは、ざわめきもしなければ驚きもしない。ただ「やはりこうなったか」と重たい空気を共有するだけ。誰もが「もし口を開けば保安局に密告されるかもしれない」と考え、互いを注意深く見守りながら沈黙を選ぶ。
「隣国を解放……そんな名目で、また血が流れるだけじゃないか……」
「しっ、声が大きい。保安局に聞こえたらどうする!」
商店の片隅や宿の裏口など、人目につかない場所でこぼされる不満や不安は、すぐにかき消される。一度でも言論の自由を求めた者が、粛清されてきた事実を市民は理解しているからだ。
そして、この新たな布告が、国をさらなる戦火へ引きずり込むことを誰もが薄々感じ取っていた。
翌朝、首都の中心にある広場に人々が集められた。集められたといっても強制ではなく、「大統領が重要な話をするらしい」という布告によるものだ。誰もが拒否するわけにもいかず、かといって熱狂的に参加する者も少ない。
保安局の兵士たちが厳重に警備するなか、薄い期待と重い不安が交じり合う空気が広場を覆う。
朝陽が少しずつ高く昇り始めた頃、簡易的に設けられた壇上へ、パルメリアが姿を現した。周囲の強硬派議員と保安局幹部たちが、彼女の後ろに控えるように並んでいる。
王政を倒した頃のパルメリアなら、民衆を奮い立たせるような情熱的な演説をしていたはず。けれど、今の彼女の瞳には不気味なまでの狂信の光が宿り、かすかな笑みを湛えながら、観衆を見下ろしていた。
「ふふっ……みなさん、おはよう。今日は大事なお知らせがあるの」
その声は凛として響き渡るが、心温まる優しさや、かつての革命の熱狂は微塵も感じられない。むしろ、冷え切った狂気すら漂うようだ。
パルメリアは静かに口を開き、周辺諸国への「正義の戦い」を語り始める。布告の内容をなぞるかのように、「彼らが我々を脅かし、圧政を敷いている」という断定的な言葉を連ね、「異国の民を我々の革命理念で救う」ことが正義だと説く。
「この国は、王政を倒して新時代を築きました。粛清や取り締まりが厳しいと感じる人もいるかもしれない。でも、それは全て、今ここに生きる私たちを守るための措置――そして、ふふっ……今度は周辺諸国で苦しむ人々にも私たちの『正義』を届けるときが来たのです」
かつてなら「解放」と「自由」の響きは民衆を奮い立たせただろう。しかし、いまの民衆は保安局と粛清を間近で見てきた。彼女の言う“正義”が、どれほど血と暴力にまみれているかを理解している以上、すんなりと受け入れるわけがない。
けれど、誰も声を上げない。上げられない。薄暗い沈黙が、広場を支配していた。
「彼らは私たちを『危険』と呼び、国境を固めています。だったら、私たちもこのまま待っていていいと思う? ……いいえ、先に動くべきでしょう?」
パルメリアは壇上から人々を見回す。まるで、その答えを求めているかのようだが、実際には答えなど期待していない。彼女の瞳に浮かぶのは絶対の確信――「これが革命の道」であるという狂信的な思いだ。
民衆の間にはかすかなどよめきが走るが、すぐに収まる。ある者はただ首を垂れ、ある者は保安局の兵士の視線を感じて口を結ぶ。
「ふふっ……私を王政と同じだと陰で言う人もいるでしょう。でも、私は王政の腐敗を討ち、皆を守るためにここにいる。その延長として、今度は周辺諸国の圧政から民を救うの。それだけよ」
その笑みは歪み、言葉も空々しく感じられるが、誰も反論しない。むしろ、保安局の兵士たちが拍手を始め、その動きに合わせるように少数の民が形だけの拍手を送る。広場には乾いた音が響き、それは虚ろに広がった。
こうして「戦争の大義」は宣言され、反対する術を失った民衆はただ静観するしかない。愛する家族や平和な日常を守りたいという思いは、粛清の恐怖と保安局の力の前にかき消される。
パルメリアの演説を受けて、政府はさっそく「隣国の民を解放しよう」というキャンペーンに乗り出した。街頭アナウンスが流れ、壁には新しいポスターが貼られる。そこには「異国の圧政を打倒し、我らの理念で自由を広める」という高揚した文言が踊っていた。
「皆さん、隣国では貴族が民衆を虐げているのです。革命精神を持つ我が共和国こそ、彼らを救う使命があるのではありませんか?」
「立ち上がりましょう。私たちの革命の力で、隣国の民も解放しましょう。ふふっ、恐れることはありません!」
アナウンスの最後には、パルメリアの笑い声を模したような演出さえ加わっており、その不気味な快活さに街の人々はさらに萎縮する。粛清と秘密警察の記憶が生々しい今、政府が掲げる「大義」を真に信じる者はごくわずかしかいないだろう。
「これって、本当に『民を助ける』ための戦争なのか……」
「しっ、そんなこと言うもんじゃないよ。耳がどこにあるかわからない」
道端でささやかれる疑問は常にかき消され、あるいは保安局員によって密告対象にされる。革命を経て自由になるはずが、言論の自由は失われ、戦争への反対意見すら封じ込められる――そこに皮肉を感じる者も多かったが、その声すら表に出せないままだ。
さらに戦時体制が加速すれば、徴兵や物資の徴用も強化される。農村からは農作物を軍へ優先的に納入するよう強制され、都市の商人には武器や資材の供出が求められる。
粛清の恐怖の中、誰も逆らえず、国中で生活が逼迫し始めた。店を閉める商人も増え、闇市がはびこり、混乱は次第に広がっていく。
「なあ、本当にこんなことして、俺たちにメリットがあるのか?」
「役人は『解放だ』『勝利だ』と煽るけど……結局、どこかの領地を奪って富を得るのは上層部だけじゃないのか?」
そうした声も再び闇に紛れて消えていく。人々は知っている。もし公然と批判すれば、保安局が動き、自分や家族がどうなるか――想像に難くない。
こうして、「血の革命」から「血の粛清」へ、そして今や「血の侵攻戦」へと移行する共和国。時代が進むごとに民の自由は奪われていき、再び王政と変わらぬ専制政治へ滑り落ちている、という皮肉を感じつつも、誰も行動できない現状が続く。




