第77話 侵攻の決断①
まだ夜の名残を薄く湛えた空に、わずかな曙光が射し込み始める頃。首都の大通りは不気味な静けさに包まれていた。ときおり行き交う人影は、互いを見合うこともなく、ただ足早に目的地へ向かうだけで、言葉を交わす者はいない。
街の片隅には秘密警察――「国家保安局」の兵士たちが立ち、粛清を逃れようとする者がいないか睨みを利かせている。数年前までは考えられなかった光景が、いまや当たり前のように広がる。
この国では王政崩壊後、パルメリア・コレットが革命の英雄として担ぎ上げられた。しかし、その栄光はいつの間にか暗い狂信へ変わり、血の粛清が社会を覆い尽くしている。そして今、この狂気は内側に留まらず、外へ向かおうとしていた。
(ついに……本当に、周辺諸国へ攻め込むというのか)
そんな噂が庶民の間でささやかれ始めたのは、つい最近のこと。直接口にすると保安局に目をつけられるため、多くは路地裏や薄暗い酒場で交わされる程度だが、その「小声の噂」が急速に広まっていることだけは確かだった。
粛清と秘密警察による恐怖支配で「秩序」を維持してきた共和国。だが、周辺諸国の厳しい視線は日に日に強まり、「危険な独裁国家」と呼ばれるのも時間の問題という段階まで追い込まれている。
そんな状況下で、パルメリアはついに「先制攻撃」を選択した。内の火種はまだ残るが、それを外へ向けることで国民の目をそらし、さらに強固な統治を敷こうと考えているのだ――そうささやく者もいた。
(まさか、本当に隣国への侵攻なんて……でも、この国ならやりかねない)
誰もがそう思いながらも、声を上げられない。いつしか自分自身が粛清の対象になりかねないからだ。
そしてこの朝、そんな闇を裏づけるように「大統領府で軍事会議が開かれる」という報せが、限られた官吏と軍上層部に伝わっていた。
大統領府の奥まった場所にある会議室。豪奢だったはずの王宮の調度品は革命で破壊され、いまは質素な長机と椅子が並ぶだけの空間だが、その雰囲気は重苦しい。朝陽が差し込み始めた窓からの光が、かえって薄暗い空気を際立たせている。
机を挟んで座るのは、国防軍司令官ガブリエル・ローウェルや外務の要職に就くレイナー・ブラント、保安局の幹部たち、そして政府の強硬派議員数名。皆、これから始まる議題に不安と緊張を抱えていた。
「……パルメリア閣下は、すでにお見えなのか?」
レイナーがひそかに周囲を見回しながら問いかける。通常なら大統領が最後に入室するのが慣例だが、この国ではパルメリアが会議室の奥で待ち構えていることも少なくなかった。
しかし、今回はまだ姿を現していないようだ。保安局の幹部が短く答える。
「閣下は、直前まで官吏から周辺諸国の軍備状況を確認しておられます。じきにいらっしゃるでしょう」
その言葉が終わらないうちに、扉が開いた。ゆっくりと足音が響き、人々の視線が一斉にそちらへ向かう。
重い扉を押し開けて現れたのは、深い漆黒の装いに身を包んだパルメリア・コレットだった。革命後の彼女は鮮やかな革命旗を纏うような姿とは打って変わり、実務的な衣装と冷徹な眼差しを宿している。
その瞳には確固たる狂信にも似た光があり、周囲を圧倒するオーラを放っていた。
「……ふふっ、みな集まっているのね」
不意に、パルメリアの唇から艶めいた笑いが漏れる。ほんの一瞬だが、その笑いは周囲の者たちに妙な戦慄を与えた。
「閣下、おはようございます」
保安局幹部が手短に挨拶すると、パルメリアはうなずき、すぐに会議室の中央へと歩を進める。
全員が黙り込み、その動きを見守った。
「昨日も報告を受けたわ。周辺諸国が国境地帯に相当数の兵を配置していると。……外交的な解決を探るには、すでに時期が遅すぎるんじゃないかしら?」
問いかけられたレイナーが、反射的に口を開く。
「おっしゃる通り、隣国は我が国への警戒を強めています。でも、だからこそ今こそ、わずかでも和解の道を探すべきです。戦端を開けば、もはや収拾がつかなくなる!」
「……レイナー、あなたもわかっているはずよ。黙っていれば、彼らが攻めてこない保証などない。むしろ私たちを『危険』とみなして先制攻撃を仕掛ける可能性さえあるわ」
彼女の声には落ち着いた響きがあるが、その奥にある何かが凍りついたような狂気を醸し出している。かつては情熱をもって人々を導いたはずの彼女が、今は「戦」の匂いを纏い、それを当たり前のように語る姿に、レイナーは胸を締めつけられる。
「でも……戦争になれば、こちらだけでなく、多くの民が苦しみます。国際社会からの非難は一層激しくなり、孤立するどころか、下手をすれば内側でも反乱が再燃しかねない!」
「ふふっ……だから、反乱の芽は徹底的に摘んできたじゃない」
パルメリアが艶めいた笑い声を漏らすたびに、その場の空気が一段と冷たく張り詰める。
そこへ保安局の幹部が口を挟む。
「閣下、既に粛清によって国内の敵対勢力はほぼ壊滅状態にあります。残る脅威は周辺諸国だけ。早期に行動すれば、我が国に有利な条件で交渉が進められるでしょう」
「そう。……私はそのために、あなたたちを集めたの」
彼女は手元の書類を一瞥し、心底確信したように言った。
「先に動くのよ。彼らが攻め込む前に、こちらから『打って出る』。そうすれば、余計な被害は抑えられる。万が一これが失敗に終わるとしても、今迷って座して待つよりはましでしょう?」
誰もが息をのむ。会議室は静まり返り、かつての同志がどんなに説得しようとも、もうパルメリアが路線を変える気配はない。「革命を護るための侵攻」という、その矛盾に満ちた言葉すら、もはや周囲は否定できなくなっていた。
保安局がまとめた報告によれば、隣国たちは確かに国境付近で軍を増強しており、商隊の往来も大きく制限されている。孤立する共和国が先に手を出すか、あるいは待ち構えるか――いずれ衝突は避けられないという見方が強い。
パルメリアはこの報告に激昂するでもなく、むしろ淡々と受け止める。まるで「想定内」という風情だった。
「ふふっ……やはり、彼らも私たちを舐めてはいないわけね。なら、こちらから牙を剥いてやるべきよ。王政を倒した力がまだあるということを示せば、他国も簡単には手出しできなくなるでしょう」
その瞳は狂おしいほどの確信に満ちている。「これが国を護る最良の手段」と本気で信じているのだ。
国防軍司令官のガブリエルは、渋面をつくりながら口を開く。
「しかし、隣国は我々が想定していた以上に兵力を整えています。もし先制を仕掛けても、短期決戦で勝てるという保証はありません。長期戦になれば物資や補給路が重大な問題になり――」
「それも覚悟のうえよ。……ガブリエル、あなたなら私の意を汲んでくれるでしょう?」
彼女は薄く笑いながら、そこに狂信の色をにじませた。その笑みを見て、ガブリエルは言葉を詰まらせる。かつて彼女を全力で護ろうと誓った騎士として、いまこうして他国への侵攻を命じられるなど、どれほどの屈辱だろう。
けれども彼には背くことなどできない。背けば自分や部下が粛清される可能性が高いし、何より彼女を「正気」に引き戻す最後の砦であるかもしれない――そんなかすかな希望が、まだガブリエルの心を繋ぎとめていた。
「……承知しました。国防軍として準備は早急に進めます」
そう答えた刹那、彼は自らに言い聞かせるように唇をかみしめる。再び血が流れ、さらに多くの民衆を苦しめることになる。それは理解していても、パルメリアへの忠誠を捨てる気にはなれなかった。
会議が一段落し、他のメンバーが散会の準備を始めるなか、レイナーはパルメリアに向き直って、まだ必死に食い下がろうとしていた。彼は「外交」を担う立場から、この侵略の破滅的リスクを重々承知している。
だが、彼女の目には既に聞く耳がないことはわかっていた。
「……頼むよ、パルメリア。先制攻撃などやめてくれ。隣国と戦争を始めたら、もう引き返せなくなるんだぞ! まだ他国との交渉の余地は、わずかに残っているはずだ!」
しかし、パルメリアは目を伏せ、ほとんど呆れたような表情を見せる。
「レイナー……あなたにはこれまで感謝しているわ。だけど、ここで甘い夢を語るのはやめて。私たちが粛清で国内を掌握しなかったら、とっくに内戦か王政復活を許していたでしょう?」
「それは……だが、それと他国への侵攻は全く別の次元の話だ!」
「別? いいえ、同じよ。革命を全うするための、必然的な道……ふふっ」
再び艶めいた笑いが会議室に響く。明るい声色のはずなのに、その響きは不気味で、レイナーは言葉を失う。それは、過去の彼女が持っていた「希望」とは正反対の、狂気に近い笑みだった。
突き放すように、パルメリアは言う。
「私は、もう誰に何を言われようと引かない。革命を護り、この国を存続させるために、外へ矛先を向ける。世界が私を誤解するなら、攻め滅ぼして黙らせればいい。それだけの話よ……ふふっ、簡単でしょう?」
レイナーは絶句し、目を逸らすしかなかった。彼女の言葉には言い返す余地が見つからない。もはや理屈ではなく、狂信的な使命感が彼女を突き動かしている。
(ここまで……壊れてしまったのか、パルメリア。いったいどこで、私たちは道を踏み外したんだ)
そう嘆きながら、レイナーもまた引き下がるしかない。彼がこのまま反対を続ければ、保安局から「裏切り者」呼ばわりされる危険すらある。




