第75話 誇りなき剣③
こうして小規模な鎮圧作戦は、ほとんど抵抗もなく終了した。結局「反乱の証拠」らしきものは何ひとつ見つからなかったが、それでも保安局は数名を「取り調べ対象」として連行していく。村は恐怖に包まれ、誰も口を利かない。国防軍が去った後、荒涼とした沈黙だけが残るのだろう。
帰路の途中、ガブリエルは馬を進めながら、低く独り言のようにつぶやいた。
「これが、騎士の役割か……?」
連行される村人の姿を見送った兵たちも、誰もが暗い表情をしている。すれ違った保安局員はまるで「仕事をやり遂げた」とでも言うように得意げな顔を浮かべるが、それが余計に胸を締めつける。
革命前、ガブリエルは純粋に信じていたのだ。パルメリアと共に王政を倒せば、騎士道がより正しいかたちで花開き、民を守る真の力になれると。
だが、今の国防軍はどうだろう――民に剣を向けさせられ、疑心暗鬼を煽り、血の粛清を支える装置に堕している。こんなものは騎士道でも何でもない。
(私は一体、何のために剣を振るっているのか……。パルメリア様を守ると誓った自分は、どこへ行ってしまったのか)
馬上で体を揺らしながら、彼は眼を閉じる。脳裏には、あの深夜の執務室で交わした誓いがよみがえる。あの時、パルメリアが見せてくれた微笑みは、遠い幻になってしまったのか。
仲間の兵たちもまた、同じような思いを抱いているのかもしれない。だが、それを口にすれば粛清されるのは必至。この国では、軍の内部でさえ「反逆の疑い」を持たれるリスクが常に付きまとう。
そして、それこそがパルメリアが築いた統治の仕組み――誰も逆らえず、声を上げる気力すら奪われていくのだ。ガブリエルでさえ例外ではない。
数日後、首都に戻ったガブリエルは、定例の報告会でパルメリアと顔を合わせた。
彼女は相変わらず多忙を極め、山積みの書類を片付けながら、周辺諸国の軍拡状況や、国内での粛清成果を確認している。そんな姿を見るたび、ガブリエルの心は複雑な思いに引き裂かれそうになる。
「……今回の作戦も問題なく終了しました。対象とされた村では抵抗らしきものは見られず、一部の者のみ保安局が拘束して連行しました。死者は最小限に抑えられたかと思いますが……」
最後の言葉に、かすかな淀みがある。
「最小限の死者」という事実自体、すでに彼が拒絶したい現実だった。だが、パルメリアは報告を聞いて眉をひそめる。
「そう。犠牲が少なかったのは不幸中の幸いね。……でも、まだ隠れた反逆者がいるかもしれない。保安局には引き続き警戒を強めるよう指示して。国防軍も、いつでも出動できる態勢をとっておいて」
ガブリエルはうなずきながら、心が千々に乱れるのを感じていた。
自分の剣は、パルメリアを守るため。革命の理想を護るため。それが今は、国民を萎縮させ、血を流させる剣へと変わり果てている。しかし、彼女を裏切ることもできない――その矛盾が、彼を縛り付ける。
報告が終わり、夜の街へと出たガブリエルは、一人馬を引きながら石畳を歩いていた。
かつては活気があったはずの首都も、今や早々に店を閉める通りが多く、まばらに残る明かりのもと、警備隊の巡回が見えるばかり。
すれ違う市民も、彼が軍の制服を着ていることに気づくと、警戒心をあらわにして足早に立ち去る。それを見るたび、彼はまた一つ苦い思いを噛み締める。
(この街を守るつもりだったのに、誰もが私を恐れている。……私の剣はもう、守護の象徴でも何でもない。ただの「粛清の脅威」だ)
もしあの誓いをパルメリアと交わした頃の自分が、この姿を見たらどう思うだろう――きっと怒り、嘆き、失望するに違いない。
だが、それでもなお彼女を裏切れないのは、あまりにも長い付き合いのなかで育まれた忠誠心と、裏を返せば「彼女が独裁者として君臨していても、自分が傍で支えればかすかでも道が開けるかもしれない」という淡い期待があるからかもしれない。
夜風が冷たい。ガブリエルは兵舎へ戻ることもせず、馬をつなぎ、あてもなく歩き出す。
革命前の記憶が、木々のざわめきとともに甦る。あの頃は、貴族の腐敗を糾弾し、王政打破のためにパルメリアと共に民衆を導いた。民のため、正義のため――それが彼の騎士としての信条だった。
「いつしか、それがこうも変わってしまうとは……」
歯を食いしばる。彼女は独裁者となり、血の粛清を進め、外に対しても強硬策を辞さない。自分はその剣を振るう立場にありながら、民を守れずにいる。
誇りなき剣――その言葉が繰り返し頭をよぎる。もう騎士道など存在しないのかもしれない。自らの信念が踏みにじられていることを知りながら、何もできない無力さ。
やがて夜が深まり、街の灯が消え始める頃、ガブリエルは再び馬に乗って兵舎へ向かった。
部下たちはすでに寝静まっているか、あるいは出動の準備に追われているかもしれない。この国では、いつ命令が下るかわからない緊張が続いているのだ。
ふと、彼は兵舎の門の前で一瞬だけ足を止める。もしここで騎士団を捨て、逃げ出してしまえばどうなるのか――ほんの一瞬、そんな思考が頭をかすめる。だが、次には深く首を振り、その可能性を振り払った。
(私が背を向ければ、この国はもっと血に染まるかもしれない。パルメリア様も孤独を深め、さらなる独裁へ踏み込むだろう。……それだけは避けたい)
彼女を止めることはできなくとも、彼女の暴走を少しでも緩和できるかもしれない――そんなかすかな望みに縋りつくように、ガブリエルは門をくぐる。そこでは、警備の兵士が黙礼を返してくるだけだ。
夜明け前の兵舎は静寂に包まれ、遠くで保安局の巡回が行われている。ガブリエルは己の部屋へ戻り、乱雑に置かれた書類を整理しながら、また一つ息をついた。
騎士道――かつては彼の中で揺るぎないものだったその言葉が、今ではもはや意味を失いつつある。剣が血に染まるたび、誇りは薄れ、罪悪感が心を蝕む。
それでも、彼はパルメリアを見捨てない。いや、見捨てられない。主従関係はもはや崩壊の淵にあるが、それでも主が歩む地獄の道を少しでも緩和したいと願ってしまうのだ。
(私はもう「騎士」ではない。けれど、彼女と共に歩むと誓ったあの日を、無かったことにはできない。それが、私の選んだ道……)
こうしてガブリエルは再び剣を手に取る。民を守るためではなく、粛清を支えるための剣となってしまった自分を呪いながら――それでも、パルメリアの命令を拒絶することはできない。
誇りなき騎士道。だが、その剣を握る手は、まだかすかな震えを宿していた。騎士道が完全に死んだわけではない――そう信じたいという矛盾が、彼をギリギリのところで留めているのかもしれない。
ここに、革命で得たはずの「騎士道」は形骸と化し、誇りは深い闇へと沈んでいく。
パルメリアの独裁はさらに進み、血と恐怖の体制がますます強固になろうとしている。外には周辺諸国との衝突の可能性が迫り、内には保安局による粛清が広がる。
そしてその剣を握るガブリエルは、騎士としての自尊心を失いながらも、なおパルメリアの側で苦悩し続けるのだ。誓いを裏切れないまま、誇りを犠牲にしてでも彼女を支え、国を守る道を選んだ――それが、彼の哀しき宿命。
――これがガブリエルがかつて誓った「騎士道」の結末にして、さらなる悲劇の序章にすぎない。
騎士の誇りはどこへ行ったのか。革命が崩れゆく最中、血に染まる剣を握るガブリエルに残されているのは、かつての輝かしい誓いの記憶と、その矛盾に苦しむ魂だけだった。
彼の真意を知る者はもはや数少なく、パルメリアもまた、その苦悩を真正面から受け止める余裕は失われている。粛清が習慣化し、国は沈黙と恐怖に覆われるばかり。
主を裏切らずに民を救うことなどできるのか――その答えが見つからないまま、誇りなき剣はまた新たな血を浴びに行く。剣の行く先は暗く、そこに光が差す兆しは微塵も見えない――。




