第75話 誇りなき剣①
――夜明け前、まだ街のほとんどが眠りに沈む頃。
王政が打倒されて久しいはずのこの国では、「革命の英雄」と讃えられたパルメリア・コレットの権力がいよいよ絶対的なものとなり、粛清と恐怖が日常化していた。
かつての仲間たちは離散し、人々は互いを疑い、声を上げることを諦めている。
そして、その血と粛清の支配を裏側から支える機関のひとつが、かつて誇り高き「騎士団」の伝統を受け継いだはずの国防軍。
だが、今や彼らは「国民を護る盾」ではなく、「独裁を下支えする剣」として機能している――。
朝焼けがまだ空を染めはじめる前、国防軍の兵舎には妙な緊張感が漂っていた。
廊下を行き交う兵士たちは、みな険しい表情を浮かべている。粛清の対象となった人々を鎮圧するため、各地へ出動する部隊が増え、ここ最近は出撃命令がひっきりなしに下される。
その陰で、指示の内容に嫌悪感を抱く者たちも少なくなかった。
「俺たちは民を守るはずじゃなかったのか? どうしてこんなことを……」
「わからないよ。上官は『反乱分子を捕らえろ』って言うだけだ。実際は、関係ない奴らまで巻き込まれてるように思うんだが……」
そんなささやきが、廊下の片隅で交わされるのを耳にしながら、若い兵士たちは口をつぐむ。下手に異議を唱えれば、自分が「反逆」とみなされるかもしれない――そんな恐怖が、国防軍の内部にまでも染み渡っていた。
「おい、早く支度しろ。今朝の出動命令は突然だ。行き先は地方の村らしいが、保安局が一緒に来るって話だぞ」
班長らしき男が部下を急き立てる。
部下の兵士はうなだれたまま装備を身につけながら、小声でつぶやく。
「これ以上、民を斬りたくなんかないんだが……。もし命令に従わなかったら、俺たちも粛清されるのか……」
答えられる者はいない。ただ、兵士たちの胸には重苦しい沈黙と諦観だけが広がっていた。
そんな状況の上に立つのが、国防軍司令官――ガブリエル・ローウェル。
昼夜を問わず舞い込む鎮圧命令の調整に追われ、彼もまた休む間もなく忙殺されていた。
しかし、内心では常に煮え切らない思いを抱いている。国防軍が粛清の執行役として動くことに、騎士の誇りを傷つけられる痛みを感じ続けていたからだ。
(私は本来、パルメリア様を守る騎士であり、民を守るための剣だったはず。どうしてこんな……)
指令書に目を落とすと、そこには「地方にて反乱の兆候あり。速やかなる排除を要する」と書かれている。
名前すら明確に示されていない「反乱分子」の摘発。相手が本当に危険かどうかも曖昧なのに、国防軍は「鎮圧」の名目で出向き、保安局の後ろ盾を得て、抵抗の有無に関係なく逮捕や処刑まで行うことも少なくない。
「司令官! 出発の準備が整いました。いつでも命令をどうぞ」
部下の声に、ガブリエルは口を一文字に結んだままうなずく。
かつて彼は、王政の腐敗に苦しむ民を救うため、パルメリアと共に戦った。その誇り高き姿が、自分をこの道へ誘ったのだ――と、確信していた。
けれど今、それが民を威圧し、血を流させる役割へと変わっている。あまりにも皮肉な現実に、心が重く沈むばかりだった。
――遠い記憶が蘇る。
まだ王政が残っていた頃、コレット家の屋敷の一室。深夜の執務室で、パルメリアは燭台の灯を頼りに書類をめくり、国を変える決意を固めていた。
ガブリエルは彼女の前に片膝をつき、騎士としての宣誓を捧げる。
「私は、パルメリア様の盾となり剣となり、命を懸けてお護りすることをここに誓います。たとえどれほど強大な敵が立ち塞がろうと、私が斬り裂いてみせる。……それが、私自身の正義を貫くことでもあります」
彼女はその言葉を受け、かすかに笑みを浮かべて言った。
「……ありがとう、ガブリエル。あなたの覚悟は痛いほど伝わったわ。私も、あなたの思いを無駄にしないよう、何が起きても正面から立ち向かうつもりよ」
その夜、彼は心から彼女を信じ、自分の正義と彼女の理想が重なり合うことに感動すら覚えた。
王政の腐敗に苦しむ民を救い、誰もが自由に生きられる国を作る――そこに騎士としての誇りがあったはずだ。
だが今、その誇りはどこへ消えてしまったのか。思い出せば思い出すほど、現在の「血塗られた」現実との落差に打ちのめされる。
「出撃命令、承認」――上官として押印する行為は、すなわち「粛清の容認」を意味する。
ガブリエルは兵舎の自室に戻り、机上に積まれた命令書を見つめていた。連日連夜、同じ手続きを繰り返しているが、そのたびに押し寄せる罪悪感は消えない。
(これは守るべき者の血を流させる行為。なのに私は、断れない。……私がやらなければ、誰がやる? いや、誰がやっても同じか――)
思考が堂々巡りする。
パルメリアが歩みを止めない限り、国防軍への鎮圧要請は続く。ガブリエルが辞めても、代わりに別の誰かが同じ任務を引き受けるだろう。だが、それを知っていても「自分だけは潔白でいたい」と退くのは、彼にとって裏切りにも思える。
重苦しい沈黙のなか、彼は改めて顔を上げ、鏡に映る自分を見つめる。騎士の鎧を纏いながら、心は誇りを失いかけている――その姿に思わず息を呑む。
「誇りなき剣、か……。いつから私はこうなってしまったのだろう」
そのつぶやきに答えるものは誰もいない。
かつて革命の英雄に仕えた「護衛騎士」という称号が、今は虚ろな響きに思える。民に畏怖される剣など、もはや誇るべき存在ではないのだ。
翌朝、出撃を控えた軍の詰所はあわただしかった。保安局の連中も顔を揃え、今回の「対象」や「手順」について打ち合わせをしている。
ガブリエルはその風景を眺めながら、いっそう胸を痛める。保安局は革命後に作られた秘密警察機関であり、あまりにも容赦がない。彼らが同行するとなれば、多少の抵抗でも「反逆罪」として処理される可能性が高い。
「……司令官。正直、俺たちは民を斬りたくなんかありません。どうか、ほんの少しでも安全に対応する余地はないんでしょうか」
声をかけてきたのは、若手の兵士。
彼の瞳には苦悩と戸惑いが混じり合う。ガブリエルが彼に手を置き、言葉を選ぶように答えた。
「気持ちはよくわかる。だが、相手が『反乱』を起こす可能性がある以上、無理はできない。保安局は一切の妥協を許さないだろう。……私も、どうしてこうなってしまったのかと思うが、命令に従わねばならないのだ」
「……はい、わかりました」
若き兵士はうなだれ、緩慢な動作で装備を確認する。
ガブリエルもまた、言うべき言葉が見つからず、心の中で詫びるしかない。かつて誓った「民を護る騎士」としての言葉が、今では無力な偽りに感じられる。




