第9話 基礎教育の普及①
農業改革がある程度軌道に乗り始めたころ、パルメリア・コレットは新たに着手すべき施策を模索していた。領地の畑を豊かにするだけでは、長期的な発展につなげられない――そう感じた彼女は、前世の知識を思い出しながら、「基礎教育」の必要性を強く意識し始めたのだ。
農民の子どもたちが読み書きをまったく身につけられないまま成長すれば、自らの人生を選択する可能性が大きく閉ざされる。算術や文字の基礎がないと、商売や新たな技術を学ぶハードルは果てしなく高くなる。パルメリアはそこに強い不公平を感じていた。
やがて、彼女は村外れの古い倉庫を改装し、簡素な学舎を作ることを思いつく。古びた建物ではあるが、屋根と壁を補修し、内部を整理すれば子どもたちを集めるには十分だった。初期費用は決して安くはないが、パルメリアは財務担当の家臣を粘り強く説得し、最小限の支出で学習環境を整えた。
少し前までは「農業改革にすら懐疑的だった家臣たち」が、今度は「子どもに文字を教えるなど、貴族社会の常識に反する」と反発を示す。しかし、公爵令嬢の改革意欲はもはや周知の事実となり、父公爵が黙認している限り、大っぴらにそれを否定する者は出てこなかった。ただ、陰で「身分の格差が崩れてしまう」と眉をひそめる貴族も少なくない。
(学ぶ機会を与えられず、成長を阻まれることのほうが、よほど理不尽だわ。反発を恐れていては何も変えられない)
パルメリアはそう強く心に決めながら、学舎の開設を急ぎ進めた。粗末な倉庫だった場所の壁を塗り直し、床に敷物を敷き、窓を補修して明かりを確保する。さらに簡易の黒板を設置し、前世で見慣れた文字表も応用して作る。
こうして「子ども向けの初等教育」を始める環境を整えたのち、彼女は講師役となる数名を探した。貴族家の出でありながら志の高い若い教師や、下級貴族出身で独学の経験がある者など、多種多様だ。そうした人材を集めるのに苦労はあったが、何とか最初の準備を形にできたのは、彼女の執念にも近い熱意の結果と言える。
ある夕暮れ時、村外れの学舎では十数人ほどの子どもたちが簡素な机に向かい、文字や簡単な計算を習い始めていた。もともと読み書きの機会がない子どもたちであるため、最初は「どうやって筆を持てばいいのか」「どのように文字を形作るのか」すら手探り状態だ。
教壇代わりに設置された小さな卓上で、講師が黒板を使って「あ」と書き、その横に「い」「う」と続けていく。子どもたちは不格好ながらも、見よう見まねで紙の上になぞっていく――その光景をパルメリアは教室の隅から静かに見守っていた。
「お嬢様、こちらの男の子が、どうしても『あ』と『お』の違いを覚えられなくて……」
ある講師が困ったような表情で呼びかける。パルメリアは微笑みながらその男の子に視線を移し、机の側へしゃがみ込む。
「見せてごらんなさい。……ここで丸みを少し加えると『あ』になるわ。もう少し線を曲げるように書くといいかもしれないわ」
そんな些細なアドバイスでも、男の子は大きく目を見開き、「あ……書けた!」と嬉しそうに声を上げる。周囲の子どもたちもそれを見て興味津々になり、自分の紙に同じ文字を試そうとする。学舎には、今までなかった生き生きとした空気が流れ始めていた。
パルメリアは内心で安堵の息をつきつつ、幼い子たちが初めて文字を理解する瞬間を目の当たりにして、胸が熱くなるのを感じた。
(前世で当たり前だった読み書きが、ここでは貴族と一部の富裕層だけの特権になっている。そこに大きな不公平がある以上、放置するわけにはいかない)
一方で、子どもたちの親や周囲の大人たちは、初めはこの「お嬢様の奇妙な学舎」へ半信半疑の反応を示していた。農作業の手伝いをさせる方がよほど有意義ではないか――そう考える親がいても無理はない。
しかし、農業改革で収穫量がわずかに増加し、生活に小さな余裕が出始めたタイミングも重なり、「子どもに少しでも学ばせる余地があるなら試してみよう」と考える人が徐々に増えてきた。特に、学舎で文字を書けるようになった子どもが親に見せてくると、その親は驚きとかすかな尊敬のまなざしでパルメリアに接するようになる。
「この子が、こんな形の文字を書けるなんて……。私にはさっぱりわかりませんが、すごいことなんでしょうね」
ある母親が、紙に殴り書きした文字を見て感心する。「お嬢様のおかげで、子どもが喜んで学ぼうとしているんです」と礼を述べる姿も増えてきた。
しかし当然、この動きを面白く思わない貴族も多い。彼らは「農民に文字を教えて何の得があるのか」「身分の差がわからなくなる」「ろくに礼儀も知らない下層が文字を覚えても混乱を招くだけだ」と、不満をあらわにする。
パルメリアがこの学舎の設立を進めた際にも、「こんな試みは貴族の威厳を損ないかねない」と強く批判された。ある家臣はわざわざ執務室に押しかけ、語気を荒らげた。
「お嬢様、身分というものをお考えください。われら貴族と、農民や平民とは住む世界が違う。なぜ文字を教える必要があるのです? 学問は貴族のものでしょう!」
そんな主張に対して、パルメリアは一歩も引かない。むしろ静かな怒りさえ覚えながら、毅然とした態度で応じた。
「学問や知識は、誰か一部の人間の独占物ではありません。読み書きができないために生活の改善すらままならないなんて、不公平が過ぎるでしょう。私が目指しているのは、領地全体の底上げです。格差を守るために教育を封じるなど、時代錯誤もいいところ」
家臣はたじろぎながらも、「しかし、お嬢様……」と食い下がるが、そこへ公爵が姿を見せて「もうよい。パルメリアに任せる」と低く宣言し、家臣を黙らせた場面もあった。公爵自身は、娘の奔走に戸惑いを見せつつも、結果が出始めている以上、あえて止める理由を見出せない。
こうして、反対派の声は尽きないものの、パルメリアの教育普及策は続行されることになった。
そして、学舎が開校してからしばらく経った夕方、子どもたちの元気な声が途切れ、授業が一段落ついた。パルメリアは教壇近くで、講師たちと進捗を確認していた。ひらがなの基礎を覚え始めた子、計算ドリルのような簡易教材を解いている子など、その成長はまちまちだが、全体としては確実に成果が出始めているという報告を受ける。
「まだ集中力が続かない子も多いですが、興味を示してくれている子どもが増えています。今日は大半が自分の名前をかろうじて書けるようになりましたよ」
若い女性教師が微笑ましげに伝える。パルメリアはそれを聞き、ほっと胸を撫で下ろしたように視線を落とした。
「よかった……。最初は嫌がる子もいると思っていましたが、興味を示してくれるなら何よりです。講師の方々には負担をかけますが、引き続きお願いしますね」
教師たちは「もちろんです」とうなずく。彼女たちも、パルメリアの意図を理解し、子どもの将来を育てる喜びを感じ始めているのだ。
教室の片隅では、先ほどの男の子が、「書き順がわからない」と困惑気味に紙を見つめているが、仲間の子どもが教え合う様子が見られた。わいわいと小さな声で助け合う光景に、パルメリアは自然と微笑みを浮かべる。
(これが一つの成功例になれば、他の村や地域にも学舎を設けることができるかもしれない。でも、そのための財源や人材はどう確保しよう……)
そんな考えが頭をかすめる。財政担当の家臣たちは「農業改革だけでも財源が足りない」と嘆いているし、教える人手もまだまだ不足している。この学舎だけでも毎日ぎりぎりの体制で回しているような状態だ。
しかし、ここで諦めたら何も変わらない。パルメリアは道半ばの課題を一つずつリストアップし、もう一歩先の手を打とうと考えていた。農業改革でやや改善した財政を、可能な限り教育へ回す方法はないか、仲間や協力者を増やすにはどうすればいいか――そのすべてを、彼女は夜な夜な資料にまとめ、思案を巡らせている。




