第74話 脅威の影③
一方、ガブリエルは首都に戻り、パルメリアへの直接の進言を試みる。
軍司令官としての立場から、周辺諸国との衝突が現実化した場合の損害を冷静に試算し、その恐ろしさを彼女に示すつもりだった。
「パルメリア様、もし幾つかの国が連合を組んで攻めてきたとき、わが国が耐えられるのは長くて数か月という試算があります。国土を広く防衛するには兵力が足りず、長期戦になれば物資不足で先に民衆が倒れるでしょう。そうなれば、結果的に革命の成果も……」
パルメリアはガブリエルの言葉を真摯に受け止めるように見えたが、その表情は曇ったままだ。彼女は机上の地図に手を伸ばすと、国境沿いに印をつけながら低くつぶやいた。
「わかってるわ。でも、たとえ他国が連携していようと、こちらが脅威を示せば、迂闊に侵攻できないはずよ。戦いたくはないけれど、攻められる前にこちらの意志を示すことが重要なの」
「しかし、パルメリア様……」
「ガブリエル、あなたには軍の再整備と防衛線の強化を任せるわ。資源が足りないなら民衆から徴発するしかない。やり方がきつくとも、背に腹は代えられないの」
その言葉に、ガブリエルは痛む胸をおさえたまま答える。
「……承知しました。ですが、どうか、最悪の事態――つまり複数国との同時衝突――だけは避けたいと思っています。交渉の可能性があるなら……」
「ええ。レイナーが何とかしてくれるかもしれない。それを期待していないわけじゃないけれど……」
パルメリアの視線は、どこか遠くを見ていた。もはや前のように強い自信に満ちた瞳ではなく、疲れをにじませながらも諦念と執念が混ざり合っているようにも見える。
レイナーはその後も、細い外交ルートをかき集めながら周辺諸国と交渉を試みていたが、返ってくる返事はどれもそっけないものばかり。
どの国も「貴国の軍備拡張は脅威」「粛清をやめる気はないのか」「早期に王政への復帰を検討するべきでは?」といった、共和国を否定するような条件を突きつけてくる。
パルメリアがそれを受け入れるはずもなく、交渉の糸口はすぐに潰えてしまう。
「どうあっても、『王政復古』か『革命の放棄』を迫ってくるのか……。そんなこと、パルメリアが受け入れるわけがないのに」
レイナーは苦い思いを抱えたまま、また一つ交渉決裂の報告書をまとめる。
こうして堂々巡りが続くなか、周辺諸国との摩擦は深刻化する一方で、軍事衝突へと歩み寄る危険が高まっていく。
さらに悪いことに、保安局の内部には「外からの侵攻が迫っている」という情報を誇張して流布する勢力も存在した。
自らの権限拡大を狙っている一部の幹部は、「戦時体制」になれば保安局の取り締まり権限はますます強固になると考え、積極的に脅威論を煽っている節があるのだ。
「実際はそこまでの兵力は集まっていないのに、『隣国が十万の兵を動かし始めた』とかデマを流しているらしい」
「それをパルメリア閣下が信じれば、より強硬な手を打つだろう。保安局の力が増すのは好都合……」
内側でそんなささやきが飛び交うのを、誰も止められない。
こうして「脅威の影」は、事実だけでなく誇張や陰謀、デマによってさらに黒く大きくなり、国全体を覆い尽くしつつあった。
粛清体制の下、国境警備や軍備増強に拍車がかかれば、民衆はますます国内に閉じこもり、海外との接触を避ける方向に動く。
農村の有志や都市の商人も、「国境での混乱」に巻き込まれるのを恐れ、自ら防衛隊を編成して地域ごとに「閉鎖」してしまう状況が目立ち始めた。
「外と繋がれば、余計な疑いをかけられる。ならば自給自足で、なんとか生き延びるしかないだろう」
そんな声を頼りに、地域がさらに分断される。外からの物資は貴重だが、同時に密告や粛清に絡むリスクが高い。結局、人々は情報も物資も遮断して互いを信用しないまま、細々と生きていくしかない。
その「閉塞」が国全体に行き渡り、かつ国境を越えた先にいるであろう敵を誰もが恐れる。――要するに、パルメリアの独裁は国内を過度に守ろうとするあまり、外へ向かう壁を自ら築いているとも言えた。
夜明け前、パルメリアは再び執務室の机に向かい、周辺諸国の動向をまとめた報告を読み返していた。
強硬策を取ることで、外からの批判は確実に増すだろう。しかし、彼女はそれを「脅しに屈しない姿勢」として、国民に示すつもりなのだ。
内心では、かつての革命時代に熱狂的に支えてくれた仲間や民衆の笑顔を思い出すこともある。だが、今はもう「そこに戻れない」という事実が、彼女の胸を冷たく締めつける。
(みんな去ってしまったけれど、私はここにいる。――王政の腐敗を捨て去るために戦った責任を、最後まで果たすわ)
そう自分に言い聞かせ、震える指でペンを握りしめる。
脅威の影が迫っているのはわかっている。もし周辺諸国が本格的に動けば、戦争は避けられないのかもしれない。しかし、パルメリアはこの道を選んだ以上、後戻りは考えていなかった。
「これでいい。――これしかないのよ」
誰もいない執務室でそうつぶやき、淡々と書類にサインを重ねる。
外の世界から孤立し、内では血の粛清が進む。周辺諸国は連合を組んで脅威に対抗しようとする――もはや危機はすぐそばまで来ているのに、彼女はあえて踏み込むかのように筆を走らせる。
その姿は、底なしの孤独と責任感が絡み合った、悲痛な決意を映し出していた。
こうして、周辺諸国が連携を深め「対共和国連合」のような動きを強める一方、共和国はパルメリアの方針のもとで軍拡と粛清を加速し、まるで戦いを求めるかのように突き進む。
レイナーの必死の外交努力は空回りし、ガブリエルの止めたいという願いも聞き入れられないまま。革命の理想は影も形もなくなった今、国を覆うのは疑心暗鬼と血、そして外へ向けられた剣の光だった。
戦争の足音が近づくにつれ、民衆はさらなる恐怖を抱き、保安局の取り締まりも一層厳しくなる。まさに「脅威の影」は、国内外を巻き込むかたちで拡大していた。
その中心で、パルメリアは「これでいい」と自らに言い聞かせながらも、夜ごとに誰もいない執務室で一人目を閉じ、崩れゆく理想を無理やり押し殺す――そんな姿を誰もが見て見ぬふりをしている。
やがて、次の決断が下された時、この国はさらに深い闇へと踏み込むのだろう。だが、今はまだ誰にも止められない。周辺諸国がいかに脅威を突きつけようと、彼女はなお立ち止まることを拒絶する。
脅威の影はすぐそこまで忍び寄り、いずれは誰もがそれを目の当たりにするだろう――。
もはやその結末がいかなるものか、パルメリアですら予測できないまま、彼女の独裁と粛清はさらに深淵へ向かって進んでいく。
――これが、現在における共和国の姿だった。
内外から包囲され、血に染まった改革が崩れかけても、パルメリアの刃は鈍ることなく振り下ろされる。外の世界により一層敵視されても「国を守る」と言い張る強権支配――その行き着く先は、革命の熱が失われた暗く冷たい地獄かもしれない。
それでも彼女は、自分が「王政を倒した責任者」として、この道を行かねばならないと信じている。止める者はおらず、あるいは誰もが止めることを放棄してしまったのだ。
周辺諸国の脅威が覆いかぶさるこの時、共和国は新たな岐路に立たされている。しかし、その選択は、もはやパルメリアと少数の幹部たちだけの手に委ねられたように見える。
いずれ訪れる嵐の前触れに、誰もが気づきながら、粛清と孤独がなおもこの国を蝕み続けていた――。




