第74話 脅威の影②
数日後、実際にパルメリアは軍備拡張の命令を公に布告した。
既に徴兵制が敷かれている共和国だが、さらに強化する形で兵士の増員と武器の製造を促す。軍部内には早くも「次なる戦い」に備える動きが活発化し始め、都市部の工房や砲兵工場には厳しい生産ノルマが課される。
これには財務・経済官僚からも悲鳴が上がった。もともと貿易の停滞で税収が落ち込んでおり、さらに農村部の不安定化で国内の物資流通もままならない。そんな中で軍事予算を拡大すれば、市民生活はより厳しいものとなるだろう。
「このままでは国内で飢えと不満が爆発します……。それに兵士を増やしたところで、装備や食糧の補給が追いつかないのでは」
財務担当官が会議で懸命に訴えるが、パルメリアや強硬派は「国を守るための投資だ」と一蹴する。
こうして、国内の困窮を顧みないまま軍拡が加速すれば、それだけ民衆の心は離れ、粛清に怯える者だけが黙々と従う国になっていく。その影で旧貴族派が地下に潜り込み、あるいは亡命して国外から王政復古を唱える――それらをパルメリアは「絶対に許さない」と決め込んでいる。
夜の軍司令部。ガブリエルは地図を広げて、各地の防衛線や兵の配置計画を見直していた。
周辺諸国が本気で攻めてくるなら、どの方面が最も危険か。その場合、どれだけの兵を割けるのか。輸送路は確保できるのか――考えることは山ほどある。だが、考えれば考えるほど、国土の広い複数の国を相手に戦う余力は共和国にないと痛感する。
「パルメリア様が先制攻撃の可能性を示唆したのは本当なのか……?」
独り言に答えてくれる人はいない。
自分の部下たちは、命令を実行するだけ。もしガブリエルが「やめよう」と提案しても、パルメリアは耳を貸すかどうか――彼は首を振って立ち上がる。
「しかし、何も言わずにいるわけにはいかない。たとえ聞き入れられなくても、私は騎士として、パルメリア様を……国を守る責務がある」
眠らない司令部の廊下を歩きながら、ガブリエルは拳を握りしめる。
誰かが止めなければ、外敵との全面衝突は避けられない。国内の粛清による恐怖だけでなく、戦場の惨禍が重なれば、多くの民が命を落とすことになる――それを想像するだけで胸が痛む。
同じ夜、レイナーは書類の山に埋もれていた。
そこには細々とした情報や、裏ルートで手に入れた国外の噂、そして国内の実情を説明するために作成した覚書が山積みになっている。どれもが雑多で、統合すれば大きな絵が見えるかもしれないが、今のところは混沌としているだけだった。
(どこかの国が仲介役を買って出てくれれば、まだ道はあるかもしれない。それでも、今の我が国をそう簡単に助ける国などあるだろうか……)
彼が夢想するのは、かつて革命を手助けした外国の思想家や支援者たち。彼らが再び動いてくれれば、国際的な圧力を和らげることができるかもしれないと思う。しかし、既に共和国の粛清を知った彼らは、裏切られたという思いを抱いているらしく、手を差し伸べようとはしない。
「誰も助けてくれないのか……。いや、僕が動けば、まだ望みはあるはずだ」
レイナーは自分を奮い立たせるようにそうつぶやくが、同時に虚しさがこみ上げてくる。
仮に誰かが助けようとしても、今のパルメリアは「外部の干渉」を嫌い、独自路線を突き進む可能性が高い。それでは何も変わらないどころか、「外部の救い」を裏切る形になりかねない――。
(この国が本当に戦火に包まれる前に、どうにか止めたい。……それでも、彼女を説得する術が見当たらないなんて)
レイナーはうつむきながら、何度目かもわからない資料整理に没頭していく。あるいは、こうして動き回ることでしか自分を保てないのかもしれない。外で眠る余裕のない夜が、彼の心を削り取り続けていた。
そして、翌朝。
大統領府の会議室では、粛清の成果と軍拡の進捗を報告するための閣僚会議が開かれる。そこでは「国外の脅威」に対するパルメリアの考え方が、改めて明確に示されることになった。
「周辺諸国の動きが本格的に嫌がらせや封鎖に傾けば、こちらも断固として反撃する。もし彼らが本気で攻めてくるなら、全力で対抗するしかないわ。――覚悟はいいわね?」
彼女の問いに、強硬派の官僚や保安局幹部たちは誇らしげに「もちろんです、大統領閣下」と答える。しかし、レイナーやガブリエルは沈黙を貫く。
パルメリアがいつからこんなに「外へ向かう牙」を持つようになったのか――それは誰にも断言できない。だが、内と外で挟み撃ちにされるような感覚が、彼女をさらなる強硬さへ導いていることは確かだ。
(王政を打倒した際の喜びはどこへ消えたの? 私も、もうあの頃の自分とは違う。けれど、だからといってこの国を滅ぼすわけにはいかない)
彼女は心の奥底でそう自答する。仲間との断絶や民衆の沈黙は痛いほど承知しているが、やめられない。「もう後戻りできない」という思いが、彼女を不退転の覚悟へ押しやっているのだ。
会議の終了後、パルメリアは執務室で一人、机に肘をついて思考に沈む。周辺諸国が結託すれば、いずれ本格的な軍事衝突が起こりうる。世界が彼女の国を敵視するなら、守りを固めるだけでなく、場合によっては先制攻撃を検討するのもやむを得ない――そう自分に言い聞かせる。
「もし私が弱気を見せて引けば、旧貴族や亡命者が呼び込む王政復活の動きが勢いづくに違いないわ。そうなれば国内でまた血が流れる。だったら、外への対応だって強く出るしかない」
その声には、かつての革命への信念が歪んだ形で混じっているように聞こえる。
誰もが「もう止められない」と思いながらも、声を上げる者はいない。黙っていれば、たとえ地獄へ突き進んでも自分の身は守られるかもしれない――そんな雰囲気が政府内を支配しているからだ。
(こうなった以上、私はやるしかない。外から何を言われても、粛清と軍拡を進め、国を外敵から守る。……これが私の責任)
パルメリアは硬く瞳を閉じ、深い呼吸をひとつ置く。血に濡れた粛清路線は、さらに発展して「外国を敵と見なす強権国家」へ移行する気配を見せている。
国境近くの村では、黒い雲が垂れ込める空の下、馬車の姿もほとんど見られなくなった。かつては交易が盛んで活気があったが、今は兵士の巡回と検問ばかりが目立ち、民衆は怯えて隠れるように暮らしている。
隣国側からも「共和国には行かないほうがいい」という警告が広まり、旅人さえ寄りつかない場所となりつつあった。ある民家の戸口では、小さな子どもを抱いた母親が、ぼんやりと国境の方角を見つめている。
「こんなに静かなのに、どうしてこんなに恐ろしいのか……」
母親のつぶやきに返事はない。
遠くで響くのは兵士たちの号令と、時おり聞こえる砲の試射らしい振動だけだ。平穏とは程遠い、重苦しい沈黙が辺りに広がっている。




