第72話 壊れた正義②
兵士が退出した後、パルメリアは椅子にもたれかかり、深いため息をつく。
顔を上げると、ドアの外からガブリエルが静かに姿を現した。どうやら部下の兵士が面会したことを把握していたらしく、ガブリエル自身も説明を求めるような表情を浮かべている。
「パルメリア様、彼の訴えをお聞きになったのですね。……私の監督不行き届きで、申し訳ありません」
ガブリエルは頭を下げるが、その瞳には憂いがにじんでいた。彼もまた、あの摘発の一部始終を把握しており、内心ではどうしようもない胸の痛みを感じている。しかし、司令官として命令に背くわけにはいかない以上、直接パルメリアに意見できる立場でもない。
「いいえ、あなたのせいじゃないわ。……ただ、ああいう若い兵士には辛いでしょうね。私がやっていることは、もう『綺麗な正義』ではないもの。……わかっているわ」
パルメリアは自嘲するように微笑む。ガブリエルは息を呑み、思わず彼女を見つめた。
「ですが、パルメリア様……。やはり、これ以上の粛清は兵士たちの士気に影響が大きすぎます。民を守るためのはずが、いつのまにか民を脅かす行動となっている……」
ガブリエルは意を決したように口を開くが、言葉の最後はしぼむように消えた。あくまで司令官として状況を伝えるための意見にとどまり、それ以上の強い言及ははばかられる。
パルメリアはそんな彼を眺め、ほんのわずかに眉を寄せる。
「わかっている。……だからこそ、可能な限り『本当に危険な者』だけを狙っているつもりよ。だが、今は疑わしき者を逃せば、また国がひっくり返るような混乱が起きるかもしれない。私は、その最悪の事態を防ぐために存在しているの」
その言葉には、絶望的な決意と、どこか狂信的な熱が混じっていた。
ガブリエルはただ黙って頭を下げるしかない。「これが正義なのか」と問いたい気持ちと、「パルメリアを見捨てられない」という忠誠心がせめぎ合うが、司令官という立場ではどうにも動けないのだ。
「……承知いたしました。兵たちには、なるべく士気が落ちぬよう私から言い含めておきます」
そう言うと、ガブリエルは静かに踵を返し、部屋を出る。扉が閉まると、再び執務室には息の詰まる沈黙が戻った。
同じ頃、外務を担当するレイナーは他国からの書簡を前に頭を抱えていた。
かつて周辺諸国との関係改善を目指した彼は、革命後の新政府を「民が主役の国」としてアピールしたが、今では「粛清と恐怖支配」による独裁政権と見なされ、外交交渉は難航を極めている。
「――隣国との貿易協定は、やはり保留。『内部が落ち着かない国とは大規模な取引を行えない』と遠回しに言われている」
「北方の諸侯連合からは『革命の正義を掲げながら、実態は血まみれの独裁ではないか』と批判されている。こちらも回答に困るな……」
レイナーは部下の官吏たちからの報告を受け、口を結ぶ。その一言一言が、どこか無力感を増幅させる。かつては「革命の理想」を掲げ、正義を堂々と語れたはずなのに、今は反論すら空虚に感じられるのだ。
「大統領が信じる正義が、本当に正義と呼べるものか、もう僕にはわからなくなってきた……」
そうこぼしたレイナーを、周囲の官吏たちは何も言わずに見つめる。皆、同じ気持ちなのだろう――しかし、口には出せない。
結局、彼らは無言のまま業務に戻る。そうするしか生き延びる道がないからだ。
執務室に戻ったパルメリアは、少し休もうと思っても結局、書類を前に体を起こしてしまう。
頭の中では、何度も「私がやっていることは本当に正義なのか?」という問いが渦巻いている。しかし同時に、「それでも止まれない」という声が大きく響き、彼女の行動を支配する。
「私が感じるこの罪悪感は、単なる甘えなのかもしれない。……ここで弱音を吐けば、国が崩壊する。私のせいで、もっと多くの血が流れる。そうなれば、それこそ『正義』に反するわ」
脳裏には、かつての王政の惨状が浮かぶ。圧政に苦しむ農民、腐敗しきった貴族の横暴――それを終わらせるために革命を起こしたのだ。あのとき抱いた高潔な願いは、今でも彼女の胸に息づいている。
しかし、その革命を成就させた結果が、今の血塗られた独裁路線だ――それはもう、正義とは呼べないほど歪んでしまっている。
「でも、これ以外に道はない。……そうでなければ、革命の意味が崩れる。私は、そのためにここまで来たのだから」
かつての仲間が反発して去った今、彼女は孤立を深めながらも、声を上げ続けるしかない。
周囲が口を噤み、恐怖に溺れながらも、「なんとか平穏を保っている」のが今の国の姿だ。そんな歪んだ安定を維持するために、パルメリアは暴力をも辞さず、いや、むしろ積極的に行使している――それは王政時代がやっていたことと本質的に何が違うのだろうか。
そこにある矛盾に目を背けるために、「これは正義なのだ」と自分に言い聞かせる以外の方法を彼女は持たない。
数日後、パルメリアは閣議の場で「さらなる粛清強化案」を打ち出す。主要官吏や保安局幹部が集まった会合で、「国に仇なす者には断固たる態度を取る」と宣言した。
その席にはレイナーもガブリエルもいたが、二人とも沈黙するしかなかった。ユリウスの辞職後、彼らを含む誰もが、新政策に反論する余地を失っていたからだ。
「旧貴族派だけでなく、革命を否定する発言を繰り返す者も要注意とみなす。――我々が血を流して築いてきた正義を、踏みにじる者は許さない」
パルメリアがそう言い切ると、保安局のトップが「よくぞ仰いました、大統領閣下。我々も全力で職務を全ういたします」と力強く応じる。
それはまさに「恐怖による秩序」をさらに強固にする宣言にほかならない。
「これこそが、私たちが命がけで成し遂げた革命の正義」
自ら語るその言葉に、彼女自身がどれほど苦悩を抱えているかは、表情からは読み取りにくい。
しかし、レイナーはその場でギリッと唇を噛み、うつむく。彼にはもう何も言えない――言えば、粛清の対象になるかもしれない。それほど深い闇が、政権の中核を覆っているのだ。
こうして、パルメリアの掲げる「正義」はますます暴走を続ける。
街では、新たなポスターが掲示され、そこには「大統領の正義は国を守る盾」といったスローガンが大きく印刷されていた。だが実際は、血と恐怖で民衆を追い込む現実があるだけ。
人々はそれを見て、鼻で笑う者もいれば、うなだれて前を通り過ぎる者もいる。そのポスターを破りたい衝動に駆られても、誰も手を出そうとはしない。保安局が見ていなくとも、いつどこで誰が密告するかわからないからだ。
「これが……正義? 笑わせるな」
ある若者が喉の奥で苦い嘲笑をこぼす。
彼の仲間らしき者が慌てて制止する。「やめろ、そんなこと言ったらお前が捕まるぞ」と。結局、その場で誰も大声を上げることはなく、沈黙のまま散っていく。声を出す代わりに、みな目を伏せて足早に立ち去るだけだ。




