第67話 国家保安局②
一方、首都の別の公的施設では、レイナーとユリウスが顔を合わせていた。外務担当のレイナーは、連日の国際交渉や情報収集に忙殺されているが、最近は各国から「共和国が秘密警察を設立している」という不信感を示され、困り果てていた。ユリウスもまた内務に関わっているが、保安局の急速な権限強化をどう受け止めていいのか、意見する立場がもはやない。
「……このままだと、いずれ国際的に孤立しないか。強権的な体制だと見なされれば、同盟や支援を得られなくなる」
レイナーは苦渋に満ちた声で言う。ユリウスはそんな彼を見やりながら、深いため息をついた。
「わかってる。けど、パルメリアはもう止まらないだろう。あれほど理想を語っていたのに、今は保安局まで設立して……」
かつては同じ革命の旗を掲げて戦った仲間が、今は「秘密警察」という形で恐怖を広めている――ユリウスの瞳には悲しみと苛立ちが混在していた。だが、自分が強引に意見を押し通せるほど、彼女との関係は残されていない。
「僕だって、パルメリアが好きでこんなことをしているんじゃないと信じたい。けれど、彼女はもう誰の声にも耳を貸してくれない気がする」
レイナーのその言葉に、ユリウスは小さくうなずく。それでも、何かを変えられるわけではない。二人とも革命初期のような熱情と行動力を失い、どう動いていいのかわからないまま、業務に追われる日々を送っている。
「……あの保安局とやらが、どれだけの人々を苦しめるか、彼女もわかってるんだろうか。それとも……わかっていても、突き進むしかないのか」
「いまの国は、彼女なしでは一瞬でバラバラになるかもしれないからな。だからこそ、本人も苦しんでるんだろう。――まあ、俺たちにはもうどうしようもないが」
二人はささやかな同情を抱きながらも、結局は手出しができない。静かに打ち沈んだまま、その場を後にするしかなかった。
その夜、パルメリアは執務室でまたしても夜更けまで書類に目を通していた。保安局から上がってくる報告は想像以上に膨大で、その多くが市民同士の密告や猜疑心から生まれる小さな情報だった。
「誰それが政府批判を口にしていた」「あの商人は旧貴族の知り合いらしい」「某地区で風変わりな集会が開かれている」――その内容は玉石混交だが、全てを斜め読みすることなく目を通さなければ判断を誤る可能性がある。
「……もし私がこれを見落として、大きな反乱に繋がったら? そうなれば、また血を流すことになる」
かすれた声でそうつぶやき、ペンを走らせる。反乱の芽を摘むために、怪しいと思われる人物を洗い出し、動向を監視する――その繰り返しが激化すれば、真に危険な人物だけでなく、何の罪もない者まで取り込まれてしまう恐れがある。パルメリアも心のどこかでわかっているが、それでも止まるわけにはいかない。
「私は……王政を倒した責任を負っている。国が再び混乱に沈まぬよう、何としてでも抑え込まなければならない」
自分を奮い立たせるようにそう独白しても、胸に刺さる痛みは消えない。レイナーやユリウスの姿はここになく、ガブリエルも軍務に忙殺されており、今や彼女の周囲には強硬派の官吏か、保安局の人間しかいない。
机の端に置かれたランプの炎が揺らぎ、彼女の瞳に淡い影を落とす。
(強権と恐怖でしかこの国を保てないのなら、私はその手段を選ぶしかない。どんなに嫌われようと、私は背を向けてはいけないのだから)
そう思えば思うほど、かつて一緒に笑い合った仲間たちの笑顔が、遠い昔の幻のように感じられる。コレット領の屋敷で、机を囲むようにして歓談し、王政時代の闇を打ち破ろうと熱く語り合った日々はもう戻ってこない。
保安局は、その象徴だ。――彼女が選んだ強権の中でも特に強烈な手段であり、さらに粛清のシステムを押し進める組織。それによって秩序は維持される代わりに、「自由と対話」の可能性は限りなく狭まっていく。
「国が崩れるくらいなら、私だけが悪者になればいい。……それで誰も血を流さずに済むのなら……」
とはいえ、それが本当に「誰も血を流さずに済む」方法なのか、彼女には答えられない。むしろ、既に十分すぎるほどの血が流れてきたのを見ている。だが、ここで進む道を変えれば、さらに大きな流血を招くかもしれない――その恐怖が彼女を突き動かす原動力だった。
やがて夜が明け、パルメリアはいつものように執務室で保安局関連の最終決裁を行った。軍との連携を強化する条項、地方自治体への監視強化策――どれもが軒並み「大統領令」のもとスピーディに施行され、議会は形骸化したまま口を出す余地すらなくなっている。
この過程で、さらに多くの官吏や関係者が保安局へ編入され、「反乱の芽を探し出せ」と躍起になって動き出していった。
こうして、王政打倒の後に生まれた共和国は、「秘密警察」を中心とする監視体制を整え、静かに息を潜める国民たちを統制する段階へと入った。誰もが心のどこかで「こんな未来は望んでいなかった」と思いながらも、明確な対抗策を見いだせない。
パルメリアが本当に求めていた国の姿は、果たしてこんなものだったのか――その問いを抱く者は多い。しかし、いまや彼女の耳に届くのは「安定を讃える報告」と「保安局がもたらす怯えの沈黙」だけだった。
夕暮れ時。街の一角で、年配の女性が道端で小声で嘆いている姿を見つけた。つい最近、遠縁にあたる親族が「反体制の疑い」で取り調べを受けているという噂が広まり、周囲の人々は距離を取り始めたらしい。
その女性はこうつぶやく。「うちの子の友だちが、ほんの軽口を叩いたとかで、いつの間にか保安局の耳に入ったらしいの。ああ、どうしてこんなことになっちゃったんだろう……」と。
周りの人たちは眉をひそめながらも、慰める言葉をかけようとはしない。巻き込まれるのを恐れているからだ。
似たような光景が、国の各地で見られるようになった。保安局の名のもと、どんな些細な風評も集められ、場合によっては取り調べの対象となる。もともと政治に興味を持たなかった層ほど、この新体制を「仕方のない安定」として受け入れ、次第に沈黙を深めていく。今さら声を上げて波風を立てるリスクを冒したい人はほとんどいないのだ。
結果として、パルメリア政権の「支持率」は外見上さらに高まっていく。国民が積極的に賛同しているわけではなく、多くが「体制には逆らわない」という消極的な態度を選んでいるだけにすぎない。それでも数字や報告としては「強いリーダーによる統治」が成功しているかのように見えてしまう。
執務室の窓からは、遠くに塔や街並みが見える。その先には、昔から変わらず小さな家々が寄り添い合い、日々の暮らしを営んでいる人々がいるはずだ。
パルメリアは、彼らの平穏を保つために革命に身を投じ、王政を倒した。そして今も、その平穏を守るためだと信じて強権を振るっている。
――しかし、その手段が「恐怖」や「密告」による鎮圧だと知りながらも、もうそれ以外の方法を見つけられない自分に、やりきれない虚しさを覚えることがある。
(これが、私の選んだ安定……なのね。民衆の声が消え、誰もが疑心暗鬼に怯えている。だけど、内乱が起こるよりは、ましなのかしら)
そんな問いが頭をよぎるたび、彼女は顔を伏せたくなる。だが、歩みを止めればまた多くの人が苦しむかもしれない。そう思うことでしか、自分を納得させられない。
保安局という新たな力が加わった今、パルメリアはもう後戻りできない。ひとたびこの監視システムを動かし始めれば、曖昧な指示では運用が難しく、次々とより苛烈な取り締まりや情報収集を要求することになる。人々が密告や疑心暗鬼に苛まれ、それでいて混乱を起こせない程度には秩序が保たれる――その境界線を彼女自身も探りながら進むしかないのだ。
(少なくとも、今のところ大規模な反乱の兆しはない。……でも、何かが大きく狂い始めている気がする)
どこかで、パルメリアはその「狂い」を感じ取っている。しかし、それでも舵を切らねば国が壊れると信じ、孤独な判断を積み重ねていく――。
こうして「国家保安局」は、表向きには「国の秩序と平和を守る」名目で、実際には広範な監視網と密告制度を用いて人々の口を封じ、疑心暗鬼の中で静かに抑圧を進めていった。
パルメリアはその最前線に立ち、「これは私の信じる安定のため」と自らに言い聞かせながら、さらなる権限の集中と取り締まりに没頭していく。以前のような仲間の支えはなく、ただ追従する官吏や軍部、保安局関係者が周囲を固めるだけだ。誰もが己の出世や保身を最優先とし、彼女を積極的に批判しようとはしない。
外から見れば、新政府は着実に「安定」を手にしているように映る。反乱の噂は途絶え、市街地での暴動も起こらなくなった。民衆の多くは「黙って従っていれば平穏が維持される」と考え、日常を淡々とこなしている。
しかし、その静寂の裏にあるのは、言葉を失った数多の市民たちの無念と、血を流さないかわりに奪われる自由だった。かつて掲げた革命の大義はどこへ行ったのか――そう疑問を抱く者も、時折いる。しかし、その声は広がることなく、保安局に察知されることを恐れてすぐにかき消される。
パルメリアは夜ごとに保安局から届く膨大な報告に目を通しながら、夜明けまで机に向かう生活を続ける。
「強権支配」が本格化し、今や誰もが息を潜めて暮らす中、彼女はなお「これでいい」と自らを奮い立たせるしかなかった。自分が弱音を吐けば、王政復活を狙う勢力が再び国を混乱へ導く――その不安が、彼女を「秘密警察」という更なる闇へと踏み込ませる。
果たして、この国に本当の安定と平和は訪れるのか――。
保安局の設立がもたらす粛清と監視の波は、まだ始まったばかりであり、パルメリア・コレットの孤独な強権統治は、ここからさらに加速していく運命にあった。誰も声を上げられず、ただ日常をやり過ごす人々と、それを黙認するしかない閣僚や仲間たち。
大義の名のもとに作られた「秘密警察」は、もう後戻りできないほど深く社会に根を張ろうとしていた。




