第8話 農業改革の成果①
パルメリア・コレットが主導した農業改革の取り組みが始まってから、すでに数か月の時が過ぎていた。
当初の計画は、排水路の整備や輪作による土壌改良、さらには農具の改良を試験的に行うという地味なもの。しかも、貴族社会でもきわめて保守的な姿勢が根強い公爵家で、このような「前例のない施策」を展開するなど、誰もが驚き、半信半疑であった。
だが、パルメリアの熱意をはじめ、彼女が丁寧にまとめた実行計画書と、試験地区を限定して導入する段階的なアプローチが功を奏したのか、少しずつ軌道に乗り始めている。いまだに慎重な家臣たちが少なくないが、成果が徐々に見え始めるにつれ、その態度にも変化が見られるようになった。
ある晴れた日の午後、パルメリアはいつものように村を視察していた。彼女が馬車を降りると、さわやかな日差しのもとで生き生きと作業に励む農民たちの姿が見えてくる。初めて訪れたころの荒涼とした景色と比べると、空気そのものがどこか活気づいているようだ。
耕し直された畑の土は、以前のような硬さや湿り気の偏りがなく、ふわりと柔らかそうに見える。村人の多くが腕まくりをしながら畑に入って作物をチェックしており、その表情にはかすかな期待感が浮かんでいた。
パルメリアが近づくと、一人の中年の女性が駆け寄ってきて、笑顔を輝かせながら話しかける。
「お嬢様、見てください! こんなに大きな豆が収穫できましたよ!」
彼女が大事そうに抱えているのは、収穫したばかりの豆の房。かつては頼りない莢しか実らなかったものが、今では二回りほども大きく成長している。その瑞々しい房を見た周囲の農民たちからも、「おお……!」という感嘆の声が漏れた。
パルメリアは思わず目を見張り、その豆の房をそっと手で受け取る。
「こんなに立派に育ったの……! 本当に、うまくいき始めたんですね。よかった……」
その言葉に農民たちがどっと集まり、次から次へと自分たちの作物を誇らしげに見せ始める。
トマトや豆、根菜など、いずれも前より一回り以上大きく、色艶もよい。ほんの数か月前までは、半ば諦めていた畑なのに、今では「土がまるで違う!」と口々に言われている。
「お嬢様が示してくれた輪作法と排水路の改良、本当に効いてます! 正直、最初は疑ってましたが……こんな成果が出るなんて……」
顔に深い皺を刻んだ老人が、目を潤ませながらしみじみと語る。まだすべての畑で安定した成果が出たわけではないが、この村では「試験区画」とされた場所で目に見えて収穫が増えており、それが農民たちの士気を高めていた。
パルメリアは、そうした農民の声を心で噛みしめつつも、あえて冷静に返事をする。
「まだ始まったばかりです。土の性質や天候の影響で、いつでも同じように育つわけではないでしょう。でも、こうして作物がしっかり育ち始めたのは、皆さんが辛抱強く取り組んでくれたからですよ」
そう言ったパルメリアの表情には、安堵とかすかな誇らしさが同居している。実際、村人たちがいなければ改革は形にならず、ここまでの成果は得られなかったはずなのだから。
「いえいえ、やっぱりお嬢様が背中を押してくれなかったら、こんなに畑を改良しようとは思わなかったですよ。最初は怪しんでごめんなさいね」
そう言って頭を下げたのは、前にパルメリアの話を冷ややかに聞いていた初老の男だった。彼はまだ口調こそ硬いが、その瞳には確かな感謝が宿っているように見える。
周囲でも「この豆を市場に出せれば、きっといい値で売れる」「子どもたちの食卓が少しでも豊かになれば……」といった声があふれ始め、人々の頬にはうっすら笑みが浮かんでいる。
もっとも、皆が急激な変化に戸惑いを抱えているのも事実。これまで荒れ果てた土地で苦しい生活を送り続けてきた村人たちにとって、豊作の兆しは嬉しさと同時に不安も招く。もしこれが一時的な成功だった場合、喜びから一転して失意に落ちる可能性もある。
「でも、こんなにうまくいくなんて、まだ信じられない気持ちもあるんですよ。もしこれが続かないとしたら……」
そう弱々しくつぶやく若い母親に、パルメリアは穏やかに微笑み、やさしく肩に手を置いた。
「だからこそ、継続的に手入れをしていくんです。輪作を続けることで、土の栄養を維持できるはず。それに、排水路をさらに整備すれば、悪天候にも対応しやすくなる。……もちろん、私も一緒に考えます。簡単に放り出すつもりはありません」
言葉に宿る真剣さが伝わったのだろう。母親は安堵の息を吐き、手を合わせるようにして微笑んだ。
そうして、多くの農民が試験区画の成果を目の当たりにし、続々と畑へ足を運ぶ。生き生きと働く彼らを見渡しながら、パルメリア自身も改めて胸にこみ上げる思いを感じた。
農業改革は、ただの「追放回避」のためだけではなく、領地を実際に変えていくための大きな一歩になりつつある。しかも、目の前で作物が豊かに実を結び、農民が笑顔になっている。その光景が、彼女の心を熱く震わせた。
(私が提案したことが、本当に役に立ったんだ……!)
前世の知識を応用できたとはいえ、この世界の土地や気候は一筋縄ではいかない。彼女は幾度も家臣とぶつかり、村人にも疑われ、夜遅くまで書類とにらめっこしてきた。それでも、今ここに成果がある――パルメリアはその事実に、小さく感動を覚え、口元を緩めてしまう。
しかし、油断はできない。まだ一部の地区でしか成果が出ておらず、全体の収穫量が劇的に上昇したわけではない。これから更に拡大し、他の作物や地域にも同様の方法を適用するためには、資金や人材の手配、貴族社会の調整など、多くの課題が山積みだ。
(でも、これだけの結果が出せたなら、きっと次につなげられる。誰かが「無理だ」と言っても、もう無視できないはず)
そう心の中で意を新たにすると、ちょうど村長らしき男性が近寄ってきた。以前はやや表情が暗かったが、今は硬い笑みの中にも一筋の希望が見えるようだ。
「お嬢様、皆、本当に救われるかもしれないと喜んでいます。ですが、今後どう進めていくか、また改めてご指示を……」
「もちろん、そのつもりです。定期的に打ち合わせをしましょう。排水路も、まだ完成ではないでしょうし、畑の土壌が落ち着くまで油断できません」
村長は「ははあ……」と、深々と頭を下げる。「ありがとうございます」と繰り返す言葉の裏には、期待と戸惑い、そして長い苦労からの解放への願いが入り混じっているようだ。
そんな農業改革の試みは、隣接する村にも少しずつ伝わり始めていた。輪作の効果や排水路改善で収穫量がアップするなら、同じことを試してみたい――という問い合わせが、パルメリアの館に届き始めたのだ。
ある村の使者が、「うちの領域でも、お嬢様がしているような農具の改良を学べないか」と申し出る場面も増えている。こうした波及が公爵領全体で広がれば、改革のスピードはもっと速くなるだろう。
しかし、そこには保守的な家臣や貴族たちの反発も見え隠れしている。いつまでもこの動きを黙って見過ごすはずがない――パルメリアはそれを十分理解していた。だからこそ、今は「成功例」を着実に増やし、誰もが無視できない実績を積み上げることが重要だと思っている。
「こんなふうに直接助けてくれるお嬢様がいるなんて……」
そうつぶやいた青年の言葉に、パルメリアは一瞬だけそちらに視線を向けたが、あえて何も答えなかった。むしろ視線は畑と村人たちへと戻り、真剣な表情に変わる。
成功例が出始めたとはいえ、これからが本当の勝負だ。各所で輪作を導入し、排水路を整備するには、相応の資金も必要である。家臣が納得しなければ、対外的な調達もままならない可能性が高い。パルメリアは成功体験を積み上げながら、保守派の貴族にも成果を見せつける戦略を練らなければならない。
(私がここで立ち止まれば、またすべてが崩れるかもしれない。領地が繁栄するとはまだ言えないけれど……今はこの波を止めちゃだめだわ)
彼女は改めて気を引き締め、抱えていた報告書に目を落とす。ざっと見直しても、ほかにも改良の余地がある箇所が散在していると感じる。土質が合わない地域や害虫の発生が多い地区など、課題は尽きないが、ひとつひとつ克服していくしかない。




