第66話 孤独な決断③
やがて、東の空がかすかに白み始める頃。パルメリアは徹夜で書類を読み終え、最後のひとつにサインを終えた。窓の外に目を向ければ、灰色の雲がまだ低く垂れ込めているが、やや光が差しているのがわかる。
この数年で、夜明けを迎えても心が晴れるような感覚を味わったことがあっただろうか――彼女は思い返してみるが、答えは見つからない。もはや、いつから夜が苦痛になったのかすら覚えていない。
(夜通し働いたところで、状況が好転するわけじゃない。でも、やらなければ誰もやらない。私がこの国を背負うと決めたのだから)
ペンを置き、瞼を閉じる。
頭の中には、仲間たちが去っていく場面が断片的に浮かぶ。クラリスの憂いを帯びた瞳、ガブリエルの苦悩する背中、ユリウスやレイナーの悲痛な声――それらを振り切るように、彼女はかすかに首を振った。
何度も後悔が胸をよぎっては消え、そのたびに「自分が背負わなければならない」と念じてきた。もう、この先に戻れる道はない。一度足を踏み入れた強権の道を、誰かが命を賭してでも歩まなければ、国は瓦解してしまう――そう信じているから。
「……私には、この国を守る義務がある。王政を倒した責任がある。だから、誰も助けてくれなくても、私は……」
小さくつぶやくその声は、夜明けの空気に溶けていく。
ひとりきりの執務室の中、彼女は椅子を立ち上がり、背筋を伸ばす。きっと今日も、どこかで衝突が起き、誰かが逮捕され、あるいは遠ざけられていく。そこにどれほどの悲しみがあろうとも、自分は歩みを止めるわけにはいかない。
やがて門外から「衛兵交代」の声がかすかに届き、朝日がかろうじて地平線を染め始める。パルメリアはわずかに眉を寄せ、冷えきった指先を組み合わせたまま、静かに窓辺へと向かった。
ほんの少しだけ開けられたカーテンの隙間からは、薄曇りの光が差し込み、執務室の一角を照らしている。
その光は決して明るい希望を示すものではない。むしろ、彼女がこれからさらに厳しい現実を生き抜かなければならないことを告げるようだ。
(この道の先に、何が待っているのか。……たとえ地獄だとしても、私はもう引き返せない)
周囲には誰もいない。かつては数多くの同志がいたはずの場所は、今や広く冷たい石の部屋となり、空気がひっそりと張りつめているだけだ。
――コツン、と靴音が床を鳴らし、パルメリアはゆっくりと歩く。次の書類の山が待つ机へ戻り、再び椅子に腰を下ろした。
(私は孤独に耐える。この国を救うために……そう、あの頃から決めていたじゃない)
もう仲間はいない。民衆は恐怖と諦めから沈黙し、親しかった人々は彼女の決断に背を向けた。しかし、彼女は国を放り出すわけにいかない。いまなお地方には不穏な動きがあり、旧貴族派や反政府勢力が機会を狙っている。もし彼女が揺らげば、あっという間に混乱が広がるだろう。
だからこそ、彼女は一人でも進まねばならない。たとえその先に何があろうとも、どれほどの罪を重ねようとも、背負った旗を下ろすわけにはいかない。
「……人々の血と涙の上に成り立つ平和かもしれない。それでも、崩壊を招くよりはマシ。私は、革命を成し遂げた責任を果たすだけ」
つぶやきはもはや誰の耳にも届かない。静寂が返ってくるだけだ。それでも彼女は言葉を発することで自分を奮い立たせる。
過ぎ去った時間は戻らない。失った仲間や信頼も、取り戻す手立てはない。けれど、今この瞬間、国の命運を握るのは彼女であり、その使命を放棄すれば王政や貴族の復活で民が苦しむかもしれない――そう考えたら、どんな孤独も甘受するしかない。
こうして、パルメリアは再びペンを握る。朝日が曇天に隠されつつも、少しずつ部屋を照らし始めるなか、彼女は決裁印を押しながら無言の覚悟を固めていた。
仲間が離れ、民は沈黙し、強権への道をひとり歩む。それでも、国を守るという一点だけは、彼女にとって揺るぎない真実だった。
誰かがこの重荷を引き受けなければ国が崩壊する。だからこそ、どれほど孤独であろうと、誰一人として頼れなくとも――彼女は歩みを止められない。
(あの日、王政を倒したのは私。革命を成し遂げたのも私。そして、この国をこの手で立て直すと誓ったのも、ほかでもない私。ならば、私は最後までやり抜かなくては……)
パルメリアは腰掛けたまま、瞳を閉じて深く息をつく。廊下からかすかに人の気配が伝わってくるが、もう昔のように温かい声は聞こえてこない。そこには業務に徹する者たちの足音だけが響いている。
ほんの一瞬、かつての情景が蘇る――活気に満ちあふれ、共に笑い合いながら作戦を立て、夜通し語り合った仲間たち。ロデリックの優しいまなざしと決断の瞬間。クラリスの研究への情熱。ガブリエルの誇り高い姿勢。そして、レイナーとユリウスの信頼できる言葉……。
全てが霧のように遠ざかっていくと同時に、胸の奥にささやかな痛みが走る。しかし、それすらも払いのけるように、彼女は大きく目を開ける。
「誰もいなくても、この国を護らなきゃいけない。――私がやらないで、誰がやるの」
その声は、虚空に消える。だがパルメリアは決意を新たに、手元のペンを握りしめた。孤独を振り払い、強権へと突き進む道はすでに決してしまった。いまさら一度踏みとどまったところで、戻る道はどこにもない。
そう思い定めると、不思議と心は静まる。周囲のすべてが離れても、「国を守る」という大義を信じられる限り、まだ自分は前へ進めるはずだ――その暗い確信が、彼女を突き動かす燃料となる。
こうしてパルメリア・コレットは、さらなる強権をもって国を抑え込む道を、たった一人で歩み始めようとしていた。
仲間のいない執務室、黙して従うだけの官吏たち。市民は恐怖と諦めから沈黙し、貴族や反政府勢力が密かに力をうかがう中、彼女は誰の支えも借りずに筆を走らせ、判を押す。
これが王政崩壊後に生まれた「自由」の末路なのか、それとも更なる試練への序章なのか――いまはまだ、誰にもわからない。パルメリア自身さえ、その先を思い描くことはできない。ただ、一人きりでも立ち止まることなく、国を保つという責任を果たすために、孤独の闇を踏みしめながら進むだけだ。
(例え私が一人ぼっちでも、この国が落ちていくのを眺めるわけにはいかない。私が選んだこの道を、最後まで貫く)
誰も彼女を助ける者はいない。けれど、それでも前へ進む――灰色の曇天の下で、大統領として孤独に耐え、さらなる決断へ向かう。パルメリア・コレットの歩みは、もはや誰も止めることができなかった。
朝日がかすかに射し込む執務室の窓を、彼女は再び振り返ることなく、机へ向き直る。そして、次の案件を処理するために書類へ手を伸ばすのだった。




