第65話 沈黙の支持③
数日後の夕方、首都の広場では市民たちが薄暮の下、露店や屋台を行き来していた。近頃は大規模なデモもなく、人々は普通に買い物をし、連れ立って歩く姿を見せる。しかしそのにぎわいには、革命当初にあった「自分たちの手で国を変えるんだ」という高揚感は微塵も感じられない。
広場の一角に貼られた公告板には、大統領を称える言葉が大きく書かれた紙が張り出されていた。「治安回復に貢献」「国の発展を支える政策」「民を守る盾」といった讃辞が並んでいる。そのそばで足を止めた若い男と女が、小声で会話を交わす。
「これ、ほんとに大統領を称えるだけの紙だな……。やりすぎじゃないか」
「黙って。そんなこと声に出すと危ないわよ。聞かれたらどうなるかわからないじゃない」
女は必死に男を制止する。男は肩をすくめ、あたりを見回すが、すでに警備隊の姿もちらほら見受けられる。彼らは特に威圧的な態度を示しているわけではないが、いつでも取り締まれるという圧力が伝わってくる。
公告板のほうをもう一度見やると、紙には「我らが大統領の下、混乱は収まり、平和な暮らしが続く」「我々市民は、この偉大なる指導者に感謝と従順を捧げよう」といった大仰な言葉が綴られている。誰が書いたのかも定かではないが、少なくとも政府からのお墨付きを得ているのは間違いない。
男と女は顔を見合わせ、ため息をついた。彼らにとって、これは「やりすぎ」と思われるプロパガンダにほかならない。けれど、口に出せば自分たちが危険に晒されるかもしれない――そう考えれば、黙って立ち去るしかないのだ。
「本当に、このままでいいのかな……」
「しっ、聞こえるわよ。行きましょ、他に用事があるんだし」
そんなささやき声を残して、ふたりは小走りに広場を去っていく。残ったのは、まばらにその公告板を眺めている人々で、皆がどこか諦めの表情を浮かべている。
こうした「沈黙の支持」は、結果的にパルメリアの強権支配をより盤石にする。誰もが騒ぎ立てず、隠れた不満を抱えながらも行動を起こさない。大統領に刃向かえばどうなるか――先の鎮圧や国外追放の事例が、十分すぎるほどの見せしめとなっていた。
レイナーやユリウスが何度か「このままでは自由を失いすぎるのでは」と提言したこともあったが、今のパルメリアは聞き入れない。どんなに警告されようと、「とにかく国を守る。混乱を防ぐためなら、強い手段も辞さない」という姿勢を崩さなかった。
その理由を問いただそうにも、彼女は決して本音を語ろうとしない。ただ、「私がやらなければ、この国は再び混乱に陥る」と繰り返すばかりだ。そして、その言葉に怯えるように市民は沈黙し、結果的にパルメリアへの支持を表明する。
(これが、私の望んだ革命の姿だったの? 人々が声を失って、生活を守るためだけに私を「支持」しているなんて。……でも、止めるわけにはいかないわ。今さら混乱を許すなんて、絶対にできない)
パルメリアは夜ごとにそう自分を納得させる。かつての理想はどこへいったのかと考えても、帰ってくるのは「今は国を支えるために必要な措置」という結論だけだ。革命仲間の何人もが去り、かつての王太子ロデリックさえ追放された今、彼女は孤立を深めながらも、強権をさらに先へと押し進める決意を固めている。
ある晩、パルメリアは執務を終えてから、自室とされる旧王宮の一角へ戻った。かつて豪華だった調度品は革命時に破壊され、部屋自体も古びたままだが、一部は修繕されている。それでも、王宮時代の栄華を思えばすっかり質素になったこの場所が、彼女の現在の居住空間となっていた。
石造りの廊下を歩きながら、パルメリアは眠れぬ夜を過ごすだろうことを薄々感じていた。頭の中には、官吏たちが作った「支持率向上」「市民の安定した支持」といった報告書の言葉が浮かんで消える。
人々が何も言わずに従っている限り、秩序は保たれる。街中で暴動が起きることもなく、大々的な反乱も起こりにくい。しかし、それは果たして「本物の支持」と呼べるのだろうか。
扉を閉め、誰もいない静かな部屋で、パルメリアは机の前に腰を下ろす。小さなランプの明かりが、彼女の表情を浮かび上がらせる。いつの間にか、彼女は長いため息をついていた。
(私に向けられるこの「支持」は、ただの恐怖の裏返し。もしくは、諦めの果ての黙認。それでも、この国を混乱から守れるなら……)
そう考えるたびに胸が痛む。もしこの強権で押さえつける体制がいつか崩れたら、人々の不満は一気に爆発するかもしれない。そして、その日が来れば、王政時代や革命期をはるかに上回る混乱が生じる恐れすらある――そういう予感が、彼女の頭をかすめていた。
けれど、今は止まれない。というより、止まる選択肢を持たない。それを決定的にしたのは、仲間とのすれ違いや、元王太子ロデリックの追放など、取り返しのつかない行動の数々だ。
「私が選んだ道なんだから……」
小さくつぶやき、机の上に置いた地図を見つめる。そこには、王政時代に描かれた国境線や地方行政区画が示されているが、もう昔のように各地方を細かく把握できているわけではない。人々の心は、かつて彼女が革命を鼓舞したときのようには動かない。
それでも――今のところ、大きな抵抗勢力は姿を潜めており、最悪の内乱は起きていない。平穏といえる状態が続く限り、人々は安堵を選び、黙って従い続けるだろう。
この「沈黙の支持」がどう転ぶのか、彼女にすらわからない。だが、目の前にあるのは「国を維持し続ける」という責務だけ。そう思い直して、地図を畳みながら、ランプを消そうと手を伸ばす。
暗闇が部屋を包み込むと、どこか遠くで夜警の声がかすかに響く。都市の夜が静かに更けていくのを感じながら、パルメリアは深い無力感に襲われる。ひとりきりの部屋で、目を閉じても眠れない夜を過ごすのは、もはや日常になっていた。
こうして、多くの市民は「強い大統領」のもとでなら日常が守られるという期待と、反政府の動きをすれば破滅するという恐怖を抱えながら、表面的には従う道を選ぶようになっていた。
革命時、あれだけ高らかに歌われた「自由」と「平等」は、今や形骸化し、誰も声を上げようとしない。かつてパルメリアを求めて押し寄せた民衆の熱狂は、今や冷め切り、ただ彼女の権力を認めることが最善だと信じ込むか、あるいは諦めるしかないのだ。
その「沈黙の支持」は、王政が倒れた国に新たな統治者をもたらした。しかし、その背後にあるのは「意志の一致」ではなく、「混乱を避けるための服従」だという事実――パルメリアも、周囲の官吏たちも、誰もが痛いほど知っている。
夜が更け、外の街灯が一つ、また一つと消えていく。首都の大通りも人影が減り、静寂が支配する。かろうじて夜警の足音が石畳を踏みしめる音だけが響いている。
廊下の奥にある執務室の前を、レイナーが通りかかった。灯りはすでに消え、扉も固く閉ざされている。彼はふと立ち止まり、かすかに耳を澄ませるが、中から物音は聞こえない。
(また彼女は眠れずにいるのかもしれない。もしくは疲れ果てて、机に突っ伏しているのか――)
そう思ったが、声をかけることはしない。彼自身もまた、今の状況をどうしようもなく感じている。パルメリアを支えてやりたいと思う半面、これ以上彼女に逆らっても無駄だと悟っているからだ。静かに首を振ると、そのまま足早に廊下を去った。
こうして首都の夜は深まっていく。街では、表面上は「秩序が保たれ、安心して眠りにつける」という空気が広がる。けれどその裏側には、人々が「騒げば自分が危険に晒される」という恐怖で口を閉ざしている現実がある。
パルメリアは強権的手段によって国を守っているかに見えるが、その彼女自身が抱える孤独や葛藤は増すばかりだ。真の支持ではなく、あくまで沈黙による服従――その重みが、彼女の胸にゆっくりと積み重なっていた。
次第に、誰もが声を上げず、時間だけが通り過ぎていく。これが本当に革命の果てに望んだ世界だったのか――答えを知る者は、今はもう存在しない。少なくとも、口に出せる者はどこにもいなかった。
沈黙の支持。その内側で渦巻く諦観と恐怖。
パルメリアの掲げた理想が霞む中、彼女はさらなる決断を迫られていく。人々が声を失うほどの統治が、いつか大きな歪みを生み出すかもしれない――けれど、今はそれでも「国を守る」という目的が彼女を前へ進ませる唯一の支えだった。
明くる朝、また平凡に街が動き始める。人々は黙って仕事に向かい、商いを続け、家庭を守る。それが何よりも大切だから。誰もが沈黙をもって大統領に従い、パルメリアはその上で苦悩を抱えながら国家を動かす。
――いつ、どこで、その静けさが音を立てて崩れるのか。あるいは本当に、このまま何事もなく進むのか。誰にもわからない。ただ今は、一時の安堵の中、誰もが目を伏せ、声を飲み込みながら、淡々と日常を送るばかりである。




