第65話 沈黙の支持②
ある日の午後、レイナーが追加の外交文書を手に執務室を訪れた。各国からの視線が厳しくなる中、今後の貿易協議や国境防衛の体制などについて協議する必要があるという内容だった。
パルメリアはその書類を黙々とチェックしながら、ぽつりとつぶやく。
「……支持率が上がっている? ここの報告書には、そう書いてあるわね」
レイナーは少し眉をひそめつつ答える。
「ああ。一部の調査結果では、そうなっているんだ。実際、街を歩くと、多くの人が『このまま強権で押さえてくれるなら、面倒な衝突は起きない』って思ってるらしいね。『革命期よりはマシ』という意見が多いみたいだ」
「……皮肉なものね。そんな沈黙による支持なんて、本当に求めていたわけじゃないのに」
パルメリアは苦い笑みを浮かべたまま、書類から視線を外そうとしない。レイナーは切なそうに彼女を見つめる。かつてのように、彼女が率直に不満を語る姿はもうない。
机の上には、各地での「安定化」が進んでいるという報告が並ぶ。農村の暴動は鎮静し、市街地のデモも発生していない。だが、それは政府による恐怖政治が背景にあるからだ――誰もがその事実を知りながら、あえて言葉にしようとはしない。
「……これで国が保たれているなら、それでいいのかしら。私は、自由と平等のために革命を起こしたはず。なのに、今の人々は怯えて黙っているだけじゃない」
彼女の言葉には、うまく言い表せないやりきれなさがにじんでいる。レイナーはうなずこうとしたが、何も言えなくなる。どんな反論をしたところで、彼女が今さら路線を変えるとは思えなかった。
沈黙がしばらく続いた後、パルメリアは書類を閉じて立ち上がる。窓辺へ足を運び、分厚いカーテンをわずかに開けて外を見下ろした。
首都の街並みは穏やかな昼下がりの光に照らされ、人々が行き交う様子が見える。だが、その中にあるのは、将来に夢を馳せるような活気ではなく、「争わず、騒がず、日々をやり過ごそう」という諦念の色合いが垣間見える。
「静かすぎる街……。実質的には何も自由じゃないのに、私が『安定』をもたらしたという理由で誰もが黙っている。こんなかたちの支持を得て、私はいったい何をしているんだろう」
そのつぶやきを聞いたレイナーは、胸を締めつけられるような感覚を覚える。パルメリアもまた、今の状況が決して理想的ではないと知っているのだ。それでも、ここで立ち止まれば国が崩壊すると信じているから、前に進み続けるしかない――その深い孤独が、部屋の空気を支配している。
同じ日の夕刻、内務・治安を担当するユリウスがパルメリアの執務室を訪れた。彼は各地での治安維持の進捗をまとめた報告書を携え、硬い表情をしている。
パルメリアがそれを受け取って目を通すと、先日まで危険視されていた旧貴族派の動きが沈静化し、地方の治安が落ち着いてきたという記述があった。農村での小競り合いも収束し、警備隊が特に大きな作戦を行う必要は今のところないという。
「地方もだいぶ静かになったわね。反乱が拡大する恐れはないと考えていいの?」
「そうだ。実質的には、反政府運動を起こす者が激減している。旧貴族派の残党も、そのほとんどが姿を隠してしまった。彼ら自身も、これ以上の抵抗は難しいと悟ったのだろう」
ユリウスは報告しながらも、その声には明るさがない。憂いを帯びたまなざしでパルメリアを見やり、ぽつりとこぼす。
「……ただ、それと同時に民衆の政治参加の意欲も低下しているようだ。議会への意見投稿や自治組織の活動も大幅に減少していて、まるで『何を言っても仕方がない』という空気が広がっているように見える」
パルメリアは言葉少なに、報告書を閉じた。彼女の唇が、悲しげに震える。
「つまり、人々は私に従えば自分の生活が守られると信じているってことね。何も言わず、何も考えず、ただ日常を送ろうとしている……」
「……ああ、そう言っていいだろう。人々が表立った行動をしなくなったのは、国にとっては一見『安定』かもしれないが、これが本当にいいのかどうかは別問題だ……」
ユリウスは目を伏せる。革命のころ、自分たちがあれほどまでに人々の声を求め、貴族の不当な支配を糾弾し、自由を勝ち取ろうと呼びかけた。その結果が、今の「沈黙」だというのはあまりにも皮肉だ。
パルメリアは深く息をつき、机に置かれた印鑑を見つめる。幾度となくこの印鑑を使って強硬な命令を下し、多くの人々を抑え込んできた。今では、自分の言葉ひとつで国の方針が定まり、反対意見は封じられるようになってしまった。
「……私は、多くの血を流して王政を倒した。国を良くするために。でも、その結果がこれだなんて。――私にとって、これは勝利なのかしら?」
そのつぶやきにユリウスは何も答えない。ただ、両手をぎこちなく組み合わせる。首を横に振りたくても、それが許されないという雰囲気がある。
沈黙が数秒続き、パルメリアはそっと視線を上げた。そこには窓から射すわずかな夕陽が、部屋の空気を薄紅色に染め始めている。
「でも、止まれないわ。いくら皮肉でも、今この瞬間を保たないと、またあの混乱がぶり返すかもしれない。――私を支持しているという人たちが本気でそう思っていなくても、国が落ち着いているなら、それでいいのよね」
彼女の声には、どこか投げやりな響きが混じっている。ユリウスは心を痛めつつ、口を開いた。
「……この国を危機から救えるのは、今は君しかいない。でも、その分、君が背負う重荷は並大抵ではない。いくらなんでも、自分を追い詰めすぎではないか?」
「追い詰められてるのは、私だけじゃないわ。この国の人々だって、もう疲れ果てているのよ。だからこそ、私に恐怖でもなんでも『力』を任せている。黙って従えば安全だと信じている。なら、私には期待に応える義務がある――力で抑えるかぎり、暴動は起こらない」
苦しげに言い放つパルメリアの表情に、ユリウスは言葉を失う。彼女がそこまで自分を縛りつける理由はわかっている。王政を倒したときの革命の狂乱、その代償に大勢が倒れた記憶は、誰の中にも残っているからだ。
そのトラウマを背景に、人々は「もうこれ以上の混乱は嫌だ」という消極的な態度を取り、パルメリアには「強権でも構わないから、安定をくれ」と沈黙のうちに支持している――それこそが「沈黙の支持」なのだ。




