第7話 新たな決意②
しばらくして、パルメリアは机の端に山積みの紙束を見つめ、すでにかなりの時間が経過していることを感じた。頭は重く、背中も痛む。前世の社畜生活と同じような徹夜作業に通じるものがあるが、今はそれでも嫌ではなかった。
彼女にはこんな考えがあった――昔の自分なら、疲れ果てた体で電車に揺られ、ただ翌日の業務を憂うばかりだった。それが今は、領地と人々の未来を真剣に思い描いて行動している。そう思うと、自分が本当に前進しているのだと感じられるのだ。
「前世での経験なんて、ただの雑学かもしれないけれど、それでも今は活かせる。……どうやって動けば一番効果的か、もう少しだけ考えたい」
彼女はそう独り言のようにささやいて、再び書類の数字に視線を落とした。害虫対策のスケジュールや、肥料の調達ルート、試験区画の進捗管理など、具体的にするべきことは山ほどある。もはや書き並べているだけでは整理しきれないほどの量だ。
しかし、怖じ気づく気配は微塵もなかった。逆に、不思議な充実感が彼女を支えている。どれだけ夜が深くなろうとも、こうして行動を起こす「理由」がはっきりしているからこそ、迷いなく机に向かえるのだ。
窓からの月明かりがやや傾きかけ、夜明けが近いことを感じさせる頃、パルメリアはようやくペンを置いた。目に見えないほどの疲労感が襲ってくるが、達成感もほんの少しだけ味わえている。
ランプの灯を少し弱めに調整し、彼女は椅子の背にもたれかけて息を吐いた。夜気が肌をなでるようにして部屋に侵入し、かすかな冷たさが頬を撫でる。
頭の中を駆け巡るのは、荒れた畑とそこで暮らす人々の姿だけではない。今後、家臣たちの中から反対の声が強まるかもしれないし、宮廷の保守派が動き出すかもしれない。さらに、自分がゲームの「悪役令嬢」として描かれた運命からは、まだ解放されていないかもしれない――それでも彼女は歩みを止めるつもりはない。
(この領地が滅びれば、私も破滅する。だけど、それだけじゃない。今の私には、ここで生きる人たちを守りたいって思いがある。絶対に逃げ出さない)
パルメリアは静かに、けれど確かな力を込めて机の端を握りしめた。自分の目に宿った意志が、ランプの暗い光の中でかすかに輝いているように感じる。
そして、彼女は立ち上がり、窓の外に視線を送る。夜の深い空に星がまだ点々と散っている。公爵家の館が眠りにつくこの時間帯、次に動くべき課題はすべて頭の中に整理された――ようやく心が落ち着きを取り戻した。
硬くなった肩を回し、軽く首をひねると、疲れた身体がほのかに悲鳴を上げる。けれど、朝になればまた新しい一日がやってきて、彼女を待つ業務と視察、家臣や農民たちとの交渉が始まるだろう。
「これが、私の新しい日常。やることは山ほどあるけれど……不思議と、嫌じゃないわ」
深夜の執務室で、パルメリアは薄い微笑を浮かべながら、そう静かに独白する。かつて前世で会社員として過ごしていた頃には感じられなかった「自分の行動が誰かの未来を変えるかもしれない」という手応えが、彼女を突き動かしているのだ。
追放回避は、もはや単なる通過点にすぎない。領地そのものを立て直すことで、廃村の危機から脱し、人々の笑顔を取り戻せるかもしれない。その先には、さらに大きな改革や衝突が待ち受けているのかもしれないが、今のパルメリアに怖じ気づく気配はない。
(私が守るんだから……この領地も、私の未来も)
彼女はそう思いつつ、書類を整理して一山をまとめ上げる。おそらく、ほんの数時間後にはまた目を通すことになるだろうが、今は少しだけでも体を休めないと。
扉を開けて廊下へ出ると、夜回りの侍女が目をこすりながら待機しており、「お嬢様……こんな時間まで……」と戸惑いの声を上げる。パルメリアは気にしないふうを装い、疲れをごまかすように小さく微笑む。
「ごめんね、心配かけて。もう休むわ。あとは朝に改めて確認するから、大丈夫」
そのまま自室へ足早に戻るまでに、廊下から見える窓の外には、ほのかな夜明けの兆しが見え始めていた。まだ星が瞬く中、東の空がわずかに白みがかっている気がする。
パルメリアは足を止めて、窓ガラス越しにその光景を眺める。次の朝が来れば、また動き回る日々が始まる――そう思うと、不思議な期待が胸に込み上げた。苦労も困難も多いだろうが、自分がやらなければならない意義を確かに感じているのだ。
最初はただ「破滅を避ける」ためだった。けれど今は違う。領民を救い、領地を守り抜く――それがパルメリア・コレットの新たな使命となった。深夜の執務室で味わう疲労や孤独さえ、彼女にとっては行動の裏付けでしかない。行動を重ねるたび、彼女の決意は一層強固になる。
そして、その決意がさらに大きなうねりを呼び起こす可能性は、彼女自身がまだ気づいていない部分が多い。腐敗した貴族社会や、ゲームの設定で描かれた「王太子ルート」など、これから先には数多くの波乱が待ち受けているかもしれない。しかし、少なくとも今、この夜明け前の一瞬、パルメリアの瞳には確かな光が宿っていた。
「追放を避けるだけなんて、もう考えてない。私はこの領地を変えてみせる。それが私の生き方になったんだから」
そう、誰に聞かせるでもなく小さくつぶやいてから、パルメリアは踵を返した。少しだけ自室の柔らかな寝台で休息を取るつもりだ。再び朝日が昇れば、彼女のやるべきことは山ほどある。
こうして、長い夜の中で机に向かい続けた結果、彼女の「新たな決意」は揺るぎないものへと育まれた。もう後戻りはしないし、させない。小さな種をまき、動き始めた改革を育てあげるためにも、パルメリアは必要なものを一つずつ積み上げていくのだ。
夜明け前の静まり返った館の廊下を、足音を忍ばせながら歩くパルメリアの姿は、一見華奢な令嬢にしか見えない。しかし、その胸には確かな炎が燃えている――「この領地を必ず守り抜く」という、貴族令嬢としても、一人の人間としても、強い覚悟だ。
こうして夜が更け、やがて空が白み始めるとともに、パルメリアの執務は一旦の休息を迎える。だが、この小さな決意が、今後の改革を支える大きな原動力となることは、誰の目にも明らかだった。彼女はもう逃げないし、失敗しても諦めない。
――そうして、悪役令嬢と呼ばれた彼女の新たな一日が、また始まろうとしている。




