第63話 元王太子の葛藤②
ある日、ロデリックは屋敷を出て集落の中心部へ向かった。ここでは週に一度、市場が開かれ、近隣の農民や商人が集まって品物を売買し、互いの情報を交換しあう。人通りは多くないが、生活必需品の取引には賑わいがあり、各地の噂が飛び交う場でもある。
身なりをできるだけ質素にし、顔を知られることを避けるためにフードを深くかぶったロデリックは、野菜や果物の屋台をひと通り見回った後、あちこちで交わされる会話に耳を傾けた。
すると、やはり聞こえてくるのは「首都の混乱」「反乱分子の取り締まり」「新政府の強権政策」など、穏やかでない話題ばかりだ。
「首都じゃ、また『反政府活動』をしたとかで大量に捕まったらしいよ。村から出稼ぎに行った若い奴も、噂を耳にして帰ってこないんだ」
「旧貴族がこっそり兵を集めてるって噂もあるね。元王太子を担ぎ出そうっていう声も……でも、どうなんだろ。どれも確かな情報じゃないしね」
何気ない農民たちの会話にも、その不安が色濃く反映されていた。ロデリックは胸を痛めながら、野菜を売る老人に何気なく声をかける。
「最近は、どうです? 食料の取引も、あまりうまくいってないように見えますが……」
老人は顔をしかめ、嘆息まじりに言う。
「ああ、もう散々だ。国の偉いさんがどんな権力争いをしてるか知らねえが、こっちは作物が売れなきゃ暮らしていけない。税の制度も変わったばかりで、混乱続きさ。なんとかならんもんかね」
ロデリックは、やりきれない思いを噛み殺しながら首を縦に振る。自分が王太子であった頃は、こうした地方の実情をまるで知らなかった。王宮の外の世界を、遠い出来事として眺めていただけだったのだ。
(パルメリアは王政の不正を糾弾し、民衆の暮らしを良くするために立ち上がった。なのに、今は人々の暮らしがさらに苦しいという声が絶えない。この矛盾は何なんだ……?)
その問いがロデリックの頭を巡り、出口のない迷路に迷い込んでいくような感覚を覚える。
集落から戻ったロデリックは、屋敷の書斎で再び思索に沈んだ。王政を捨て、自分はあくまで一市民であると割り切って生きるつもりだった。だが、情報が増えるほどに、じっとしていられない衝動が湧き上がる。
旧貴族派は彼を利用しようと躍起になっており、もし何らかの行動を起こせば、パルメリアとの対立構造が一気に顕在化するだろう。ロデリック自身は、彼女を苦しめるために動くつもりなど毛頭ない。だからこそ、軽々しく姿を晒すのは危険だとわかっている。
(それでも、何もしないでいていいのか? このまま放っておけば、人々の不満は高まり続け、いずれもっと大きな内乱が起きるかもしれない。そうなれば、パルメリアはますます強権に傾いてしまうだろう)
彼の気持ちは完全に堂々巡りだった。王太子として何も成せず退いた自分に、いったいどれほどの権限が残されているのか。しかし、国を思う気持ちは今も消えない。何より、パルメリアが孤独な戦いを強いられているのではないかと想像すれば、黙って見過ごすわけにはいかなくなる。
机の上には、パルメリアが革命後に挙行した数々の改革の記録が書かれた報告書や、最近の粛清や取締りを伝える文書が積まれている。一方で、旧貴族派からの封書も混ざり、それらが不気味に同居する様を、ロデリックは唇を噛んで眺めていた。
「パルメリア……君はもう、私の知らないところまで行ってしまったのか。それとも、今もあの頃の理想を捨てきれずに苦しんでいるのか」
そうつぶやく彼の声は、苦悩の色を帯びている。
過去の王宮での記憶が脳裏をかすめる。謁見の間の奥、きらびやかなシャンデリアの下で開かれていた豪華な宴、貴族たちの虚栄や陰湿な政争、そしてその闇を断ち切るかのように剣を構えたパルメリアの姿――あの強さは眩しかった。
今も彼女は強い意志を持っているだろう。ただ、その方向があまりに急峻で、誰もついていけないのではないか。
迷い続けた末、ロデリックは屋敷の奥で老執事と向き合った。
古くから王家に仕え、ロデリックの幼少期から世話をしてきた人物だ。革命後も彼のもとに残り、身の回りのサポートを担っていたが、その視線は穏やかでありながらも真剣な光を帯びている。ロデリックが何を思い、どう動こうとしているかを察しているからだ。
「執事よ。もし、私が首都に行っても、無駄な衝突を生むだけだと思うか?」
ロデリックが問いかけると、老執事はしばし黙考した末に言葉を発した。
「無駄かどうか、私には判断しかねます。しかし、殿下――いえロデリック様がこのまま地方で隠遁生活を続ければ、旧貴族派が勝手にお名前を利用するかもしれません。それがさらなる戦乱の呼び水になる可能性もあります。ならば、敢えてご自身が行動を起こし、彼らの動きに釘を刺すという方法も……」
老執事の言葉には、長年王宮を見つめてきた者の現実的な視点が感じられる。ロデリックは感謝の念をこめて、静かにうなずいた。
「ありがとう。私もそれを危惧している。彼らが勝手に私を王座に担ぎ上げるような真似をされれば、パルメリアはますます旧貴族への警戒を強め、無益な流血が増えるだろう。……でも、パルメリアのやり方も危うい。国民を恐怖で統治するなんて、私の知っている彼女ではない気がする」
老執事はゆっくりと背筋を伸ばし、ロデリックを見つめ返す。
「……ロデリック様。どうかご自身の正直なお気持ちに従われますように。たとえ元王太子という立場を捨てても、あなたは国を思う心を失っていない。ならば、何ができるかを探るのは間違いではないと存じます」
その言葉を受け、ロデリックは心が少しだけ軽くなるのを感じた。自分がここでじっとしていても、旧貴族派の動きを封じられるわけではない。むしろ、自分が直接何らかの行動を示すことで、彼らの暴走を防ぐ手立てになるかもしれない。
同時に、パルメリアへの想いもある。もし、彼女が本当に孤立し、強権的な道を突き進んでいるのだとしたら、誰かが止めなければならない。
決意しかけたロデリックだったが、その行動はまだ明確には固まらない。王都へ行くとして、どうやって彼女と向き合えばいいのか。あるいは、このまま地方で地道に情報を集め、旧貴族派の暴走を抑える方法を探るべきなのか。
しかし、一つだけ確かなことがある。それは、放置すれば、いずれ自分の存在が引き金となって国が混迷を極めるかもしれない、という危機感だ。
夜半、ロデリックは寝室に入った後も眠れず、窓辺に立って月のない夜空を見上げていた。ふいに胸がぎゅっと締めつけられ、言葉にならない思いが溢れてくる。
(パルメリア……。君が苦しんでいるのなら、私はどうすればいい? 王太子としての責任を放棄した私に、何ができるというんだ……)
まぶたを閉じれば、革命の頂点で高らかに剣を掲げた彼女の姿が浮かぶ。まるでその剣が、今は民衆を傷つける刃となってしまったのではないか――そんな恐ろしい想像がロデリックの心を乱す。




