第63話 元王太子の葛藤①
かつての王宮から遠く離れた地方の片隅――。
空はどこまでも広がり、王都の喧噪とは無縁の風が乾いた草原をそっと撫でていく。川のせせらぎが聞こえるほどの静寂な地帯だが、それでも人々が細々と暮らす集落が点在し、夕刻になればかすかな食事の匂いが風に乗って流れてくる。
その一角に、目立たないが堅牢な造りの屋敷が建っていた。かつて王族の一員が滞在するための離宮のように整えられた施設の名残で、外観は簡素だが、ところどころに上質な装飾が施されており、普通の農家とは一線を画している。
そこに身を潜めるように暮らしているのが、元王太子ロデリック・アルカディアである。
王政崩壊後、彼は自らの立場を捨て、表舞台を去った。王位継承を放棄し、一市民として生きる道を選んだのだ。革命軍が王都を制圧した際、その行く末を案じながらも、自分が王として即位する未来はないと悟り、静かに立ち去った。そのため、地方には「亡き国王の息子」という噂がひそやかに伝わっているものの、彼自身の所在を知る者はごく限られていた。
ロデリックの屋敷は、周囲に緑の畑と小さな果樹園が広がり、日の出とともに農民が働き始め、日の入りとともに村全体が沈黙に包まれるという、のどかな場所にある。
彼自身はこれまでの華やかな生活とは打って変わり、ほとんど人目を忍ぶようにここで暮らしていた。かつて王太子としての慌ただしい日々を送った彼にとって、この地方での日常はある種の解放感をもたらしたが、同時に満たされない焦燥も感じさせていた。
「――今日はまた雨が降りそうだな」
朝早く、ロデリックは屋敷の玄関先に出て、空模様を眺める。低い雲がかかり始め、日差しは薄く、風が少し肌寒い。
服装は簡素なシャツとズボンという一市民の姿だが、背筋の伸びた立ち居振る舞いにはどこか「育ちの良さ」がうかがえる。とはいえ、ここに来てから長い年月が過ぎ、彼の顔にも少しずつ疲労の跡が刻まれ始めていた。
(こんなにも遠く離れた地で静かに暮らしているのに、なぜだろう。国の行く末を思うと、心がざわつく)
ロデリックは何度も「いま自分は王太子ではない」と言い聞かせてきた。だが、王太子という立場に縛られ、何もできなかった過去は、一種の罪悪感として彼に重くのしかかっている。
王政が倒れたとき、そこには確かに腐敗と不正があった。自分がそれを変えられなかった事実が、彼の心に棘のように刺さり続ける。そして、自分に代わって新政府を樹立したパルメリアが、今、恐れられるほどの強権を振るっている――という話を耳にするたび、その棘がさらに胸を締め付けた。
屋敷の奥には、ロデリックが情報を得るために集めた書物や新聞、書簡などが散らばった小さな書斎がある。彼はそこで、旧知の者から送られる手紙や噂話を読み漁り、いまの国の動向を必死に追っていた。
ある日の午後、ロデリックは書斎にこもり、机に山積みになった資料に目を通していた。
新政府が発行する公報や地方行政の通達、民衆が発行した地下新聞の断片――どれもが一致するのは、「パルメリア・コレットの強硬策」という文字ばかりだ。さらに、「反乱分子の鎮圧」「旧貴族の処刑」「民衆の弾圧」という物騒な言葉が並ぶ。
「……パルメリア、いったいどうして……。君なら、もっと別のやり方を見いだせたのではないか」
彼女の名を口にすると、胸の奥が熱くなる。ロデリックは、かつてのコレット領の視察でパルメリアと出会った頃を思い出す。あのころ、彼女は貴族社会の腐敗に断固として立ち向かい、その不正を一刀両断する果敢な姿を見せていた。
彼女こそが、腐敗した体制を打ち砕き、国を救う希望になる――そう信じていたのは、自分だけではなかったはず。彼女に惹かれ、密かに想いを寄せていた時期もあった。しかし、王太子という立場では、パルメリアに積極的に味方できなかった。最終的に、革命を起こしたのは彼女とその同志たちであり、自分は戦うことはできなかった……。
(自分の無力さが招いた結果、と言えるのだろうか。もしあのとき、もっと早く行動していれば、パルメリアが今のように孤立せずに済んだのかもしれない)
ロデリックは、新聞に目を走らせながら、そんな後悔を噛みしめる。自らが王太子であることを放棄した結果、彼女は王政を倒した英雄として絶大な権力を手にし、今や周囲を圧倒するほどの存在となってしまった。
しかし、その権力行使がどんどん過激になり、人々の口を塞ぎ、自由を奪いつつある――その事実を前に、彼の胸には焦燥感と悲しみが入り混じる。
さらに厄介なのは、旧貴族派の動きだ。
近頃、ロデリックのもとには「再び王政を復活させるために、あなたを担ぎたい」という内容の手紙が幾通も届いている。彼らは表向きには姿を消したが、密かに武装を整え、パルメリア政権を打倒しようとしているという噂もある。
屋敷の管理を任されている老執事が、困った顔で束ねた封書を持ってくる。
「殿下――いえ、ロデリック様。今朝もまた怪しげな書状が届きました。一見すると商取引の提案のようですが、たぶん中身は……」
老執事はそこで言葉を濁す。しかし、内容はおおよそ察しがつく。きっと「元王太子を擁立し、王国を再建する」という誘いだろう。
ロデリックは苦々しく首を振り、老執事から封書を受け取る。
「ありがとう。中身を見るまでもないさ。どうせ『一度、我々と会ってお話を』とか、『民衆はあなたを待っている』とか、そんな文面だろう。――私はもう王家の人間ではない。もちろん、貴族たちに利用される気もない」
そう言いながらも、彼は封書を手の中で軽く振ると、机の上に無造作に置いた。旧貴族たちの画策を一笑に付す余裕がある一方で、どこかに不穏な予感がつきまとっている。
もしも彼らが強引にロデリックを担ぎ出し、パルメリアに対する「正統な王家の後継者」として祭り上げようとすれば、国はさらなる混迷に陥るだろう。それをパルメリアが知れば、ますます強権を振りかざす口実になりかねない。
ロデリックは小さく息を吐いた。
(こんな誘いが増えているということは、それだけパルメリアの政治に不満を抱く者が多いのだろう。……だが、今さら私が表に出て何になる? 戦乱を広げるだけで、彼女の苦しみを増やす結果になるかもしれない)
王太子という肩書きを捨てた以上、もう自分には何の力もない――そう思う一方で、「元王太子」という立場だからこそ、事態を少しでも好転させられるかもしれないとも思える。この矛盾した思いが、彼をさらに苦悩させていた。
かつての王太子としてのプライドが完全に消えたわけではない。しかし、ロデリックの胸を最も強く揺さぶるのは、パルメリアという存在に対する特別な感情だった。
彼女が王政を倒すために掲げた旗印――「民の自由と平等」。それに共鳴しながらも、自分は王家の血筋として決定的な行動を起こせなかった。結局、革命はパルメリアが主体となり、新しい時代を切り開いた。
だからこそ、彼女が孤軍奮闘するのを支えてやれなかった自責もあり、同時に革命後の彼女を見て胸を痛める。今や、各地で起こる反乱や混乱を恐れるあまり、力で抑え込むという道を選んでいるという話が伝わってくる。
(あれほど輝いていたパルメリアが、どうして……。彼女は国を守るために、誰よりも必死に戦っている。その覚悟は理解できる。だが、その過程で多くの人が血を流し、声を封じられているのも事実。これは彼女が望んだ結末ではないはずだ)
ロデリックは書斎の窓辺に立ち、遠い空を見つめながらそう考える。王政時代には、同じように王城の窓から外を見下ろし、パルメリアの率いる革命軍の動向を案じていたことを思い出す。
革命の当時、彼女は堂々と剣を取り、民衆の先頭に立っていた。戦場の瓦礫の上で剣を握る彼女の姿は、どんな絵画よりも力強いものだった。それを直接見届けたロデリックは、その瞬間から目を離せなくなったのだ。
しかし今、王政が倒れた後の彼女は、王太子として何もできなかった自分以上に孤独かもしれない――そう思うと、胸の奥が熱く疼く。




