第62話 失われた絆②
「パルメリア様、私からも申し上げたいことがあります。最近の軍の動きは、あまりにも『民衆に剣を向ける』内容が多すぎる。反乱分子が実在するのは確かですが、本当に罪のない一般市民まで巻き込まれている事例が出ています。このままでは士気が下がる一方ですし、部下たちも退役を考え始めている」
彼の声は低く、苦痛を帯びていた。革命の時代、ガブリエルは「民を守る剣」を掲げて戦ったのに、今はその剣が民を圧迫している現状を見て、騎士としての誇りに背く思いを抱いているのだ。
パルメリアは書類から顔を上げ、真っ直ぐに彼を見つめ返す。そこにあったのは戸惑いとも哀しみともつかぬ光。
「私だって好きで市民を取り締まってるわけじゃない。でも、旧貴族派や反乱分子が武装し、いつ暴動を起こしてもおかしくない状況なのよ。ここで甘い顔をすれば、一気に火が広がるかもしれない」
ガブリエルは唇を引き結び、反論の糸口を探すように一瞬黙り込む。やがて、意を決したように声を振り絞った。
「しかし……これでは、『民衆のための革命”が“民衆を押さえつける新たな圧政』になりかねません。我々がかつて憎んだ王政の姿に近づいているように思えてならないのです」
その言葉は、パルメリアにとって最も触れられたくない核心だった。彼女の心には、いつもその不安と自責が付きまとっていたからだ。だが、自分を奮い立たせるように強い調子で言い返す。
「……わかってる。それでも、今後一切の反乱の芽を摘まなければ、国は崩壊の危機に陥る。昔の王政と同じにはしない。必ず『民のため』にこの局面を乗り切り、安定したら改革を再開するわ」
しかし、クラリスとガブリエルの表情にはもはや納得の色は薄い。どこか諦めに似た影が浮かんでいた。
しばしの沈黙が応接セットの周囲を包む。雨音が遠くからかすかに聞こえ、部屋の中まで湿った空気が忍び込んでくるようだ。
やがて、クラリスが深呼吸をして立ち上がり、握りしめた書類をテーブルに置く。その様子を見たガブリエルも、沈痛な面持ちで視線を落とした。
「パルメリア様……もう、私には、これ以上ここで仕事を続けることはできません」
クラリスの唇が震える。かつては彼女を「天才学者」と称え、国の未来を託してくれたパルメリアに対し、心からの信頼と感謝を抱いていた。しかし今は、その強権的な体制が研究活動さえ阻み、さらには多くの人材を失わせる要因になっている。
彼女の言葉に、パルメリアは思わず目を見開く。しばらく言葉を返せず、息が詰まるような沈黙が降りた。
クラリスは続ける。
「あなたに見捨てられたとは思いません。私のことを信頼して、研究のための予算や体制も整えてくださった。それは間違いなく恩義です。でも……今のやり方に加担することは、私にとって自分自身を裏切る行為になってしまうんです。人々の生活を良くするための研究なのに、成果がいつの間にか監視や武器開発に転用されるかもしれない。そんな危険を感じながら、もう研究所を続けられません」
パルメリアは、机に残された書類の山に視線を落とし、痛みを堪えるように小さく目を伏せる。かつて革命の草創期からクラリスに寄せていた信頼を思い出しながらも、今やもう後戻りできない立場だ。
しばらくして、非常に冷えた声で言い放つ。
「……そう。あなたが辞めたいなら、止めはしない。無理に引き留めても不満が残るだけでしょうから」
その言葉には、どこか突き放すような響きがあった。クラリスは驚いたような表情を浮かべ、しんと静まり返る。
ガブリエルが、そっとクラリスの背に目をやりながら、自分も口を開いた。
「私も考えました。司令官として、部下を守りながら国防を担ってきたつもりです。しかし……もう、これ以上、仲間に剣を向けるような任務を続ける意義を見いだせなくなりそうです」
そう言いながらも、ガブリエルの声はどこか弱々しく、迷いをにじませている。心のどこかでは、パルメリアのために戦い続けたいという思いがあるからだ。
「あなたがいる限り、私は最後まで守りたい気持ちもあります。ですが、私たちが願ったのは『民を守る』軍であって、『民を制圧する』軍ではない……。部下の間では既に退役者が相次いでいますし、これ以上はもたないでしょう」
そこまで聞いたパルメリアは、かすかに表情を曇らせ、拳を握りしめる。
――もしここでガブリエルまで失えば、自分を支える軍内部の統制が崩れてしまうかもしれない。彼は優秀な司令官であり、多くの兵士の信頼を集める人物なのだ。パルメリアは焦りにも似た感情を覚えつつも、あえて厳しい態度を貫こうと決める。
「ガブリエル……あなたは軍を率いる立場でしょう? 今ここで辞めると言うなら、軍の士気がどうなるか分かっているの? あなたが抜ければ、そこに反政府勢力が入り込むかもしれないわ」
半ば脅すような響きさえ感じられ、ガブリエルは苦い顔をする。しかし、彼もまたパルメリアに対して長い間仕えてきた手前、そう簡単に「辞める」とは言えなかった。むしろクラリスのように明確に辞任を告げたわけではないのだ。
ガブリエルは視線を落としながら、苦しげにつぶやく。
「それでも……私は、部下たちを守らないといけません。いずれ、すべてが限界に達する日が来るでしょう。私はその時まで、軍の崩壊を食い止めるつもりです。でも、それ以上は……」
言葉を濁したまま、ガブリエルはうなだれた。パルメリアは奥歯を噛みしめ、「わかったわ」と短く返事をする。
クラリスとガブリエルは、そのまま執務室を出ていった。扉が閉まると同時に、やりきれない思いが部屋に淀んだまま残される。
クラリスはその日の夕方、研究所に戻ると、学術スタッフや学生たちを集めて「自分は辞任し、この場を去る」ことを正式に告げた。
周囲は動揺し、涙を流す者もいた。まだ若い学生は口々に叫ぶ。
「先生……私たち、これからどうなるんですか? 新政府の助成で研究できると喜んでいたのに……」
「こんな形でやめるなんて。何か方法はないんですか……?」
しかし、クラリスは静かに首を振る。彼女自身が残っても、研究所が今のままでは本来の目的を果たせないし、誰かを危険に巻き込む可能性がある。「反政府勢力の温床になる」と疑われたら、一瞬で全員逮捕されてもおかしくない。
「ごめんなさい。私にできることは、もうほとんど残っていないの。せっかくここまでみんなで頑張ってきたのに……どうか、身を守って。研究員として残るよりも、まずは安全を確保することを考えて。私も責任を取って辞任するしかない」
若者たちは目を真っ赤にしながらも、この言葉を受け入れるしかなかった。彼女の辞任はただの退職という意味合いだけではなく、新政府の体制の下での自由な研究の終焉を象徴するようにも思えた。
一方ガブリエルは、軍の詰所に戻ってからも苦悩が晴れない。部下たちにどんな顔をすればいいのか、心中の迷いをどう表に出さずにいられるか。自分が司令官を辞めれば、さらに多くの兵士が離脱し、国防の要が崩壊するかもしれない――その責任と恐怖が、彼をがんじがらめにしていた。
(私がここで降りれば、いったいどれほどの混乱が起きる……? でも、このままでいいのか? 本当にパルメリア様は正しい道を進んでいるのか……?)
独り言のように口をつぶやきながら、ガブリエルは打ち捨てるように机へ倒れ込みそうになる。扉の外に立つ衛兵たちは、そんな司令官の姿をちらりと見ても、何も言わずに視線をそらすのだった。




