第60話 恐怖の支配③
一方、パルメリアは夜更け近くになっても執務室の灯を落とさない。分厚い報告書を読み、次々と印を押し、部下に指示を出す。
昼間にレイナーやユリウスから聞かされた「やりすぎだ」という言葉が頭をよぎるたび、彼女は誰にも聞こえないほどの小さなため息を吐く。しかし、それでもペンを止めることはしない。
(ここで引き返して、もし王政派や反乱勢力が実権を取り戻したら、この国は再び闇に沈む。私はそんな未来を容認できない)
紙の上に記された名前の中には、かつて革命に加担してくれた人々も混ざっていた。ある者は旧貴族の息がかかった疑惑をかけられ、ある者は政府への批判をこぼしただけで反乱分子扱いされることもある。それでも、パルメリアは「やむを得ない」と自分に言い聞かせる。
「国を守るためなら、私が汚名を被るしかない。――そうよ、これは必要な犠牲……」
彼女の唇から漏れたその言葉は、執務室の静寂に呑まれていく。護衛騎士として扉の外に控えるガブリエルが、その断片を聞いたような気がしたが、何も問いただすことなく無言で見守り続けている。
かつて、彼女が王政を打ち破ったときには、こんな形で権力を振るう日が来るなど想像もしなかった。しかし、一度強権を取り始めると、後戻りは困難だという現実を、彼女は身をもって実感している。
翌朝、首都の大通りには珍しく薄曇りの空が広がっていた。柔らかな朝の光が差し込んでいるはずなのに、そこに温かさや穏やかさを感じる者は少ない。
左右には警戒厳重な詰め所が増え、人々は荷車を引きながらじっと地面を見つめて歩く。あちこちで通行証の提示を求められ、庶民たちは「『反乱の疑い』などと因縁をつけられたらどうしよう」と怯えながら支度をする。
商人の馬車が通りかかると、警備隊が容赦なく荷を検める。わずかな違反、あるいは作り上げた疑いであっても、即座に「反政府の疑い」で連行される例が実際に起きているからだ。
「……みんな、誰かを信用できなくなっている。隣人や同僚が密告者かもしれないと思ったら、何も言えない」
とある中年の男がつぶやくも、それを聞いた周囲の人々は、一瞬で顔をそらした。彼を密告するつもりなのか、それとも不安に共感しているのか――その真意は計り知れない。
こうして、かつて華やいでいた首都は、見えない網の目が張り巡らされたかのように、すべてが「恐怖」を中心に回り始めていた。
このころ、市民の多くは日々の糧を得るため、最低限のやり取りは行うものの、政治の話題や政府への評価を話す光景はほぼ消え失せた。
喫茶店であっても、以前はテーブルを囲んで客同士が雑談していたのに、今は静まり返っていて、淡々とパンや飲み物を口にするだけで長居もせずに去っていく。
店の主人がふと客に話しかけようとしても、客はぎょっとしたように立ち上がり、「いや、何でもないです」と言って勘定を済ませて出て行く。まるで、自分から言葉を発する行為そのものに危険が伴うと感じているのだろう。
「これが、本当に私たちの目指した未来なのかい……?」
店の隅で苦いコーヒーを啜りながら、老女が小さくつぶやいたところで、誰からも返答はない。数名の客は聞こえないふりをし、老女もまた、それ以上言葉を続ける気力はないらしい。
外へ出れば、日常の風景は一見変わらないようにも見えるが、そこに生きる人々の心はすっかり萎縮してしまっていた。
王政が崩れた直後、街に溢れていた改革への希望――それは、いまや「恐怖」という見えない壁に阻まれ、人々の心から遠ざかりつつある。それでも、パルメリアは止まらない。
執務室では新たな大統領令が次々と用意され、保安局の取り締まり権限はさらに拡大されていく。周りにとっては過度とも言える措置だが、彼女は「これが国を守る唯一の手段だ」と信じて疑わない。かつては仲間と語った理想も、今は「仕方のない犠牲」の陰に隠れ、遠のいてしまっている。
レイナーやユリウスが何を言っても、もはや彼女の決意を翻すことはできなかった。地方からも「首都のやり方は苛烈すぎる」という声が上がっているが、それも「反乱の目」として一蹴される。
こうして共和国全土で「恐怖」が共有され、表立った抵抗は激減していく。その意味では、確かに内乱の火種は小さくなりつつあるように見えた。だが、それは本来の「平和」とはかけ離れた、沈黙による無理な均衡にすぎない。
夜の帳が下りるころ、パルメリアは窓の外を見下ろす。そこには、街灯の少ない夜道をこそこそと移動する人影がちらほら見えるだけで、かつてのような賑わいは全くない。人々が夜に出歩くことを避け、早々に家に籠もる生活が当たり前となっている。
彼女は執務机に広げた書類のリストを改めて見やる。そこには「疑いのある者」たちの名前がずらりと並び、保安局の準備する次の一斉検挙の計画が記されていた。
確かにこのやり方で「表面上の混乱」は抑えられている。でも、レイナーやユリウスの言うように、これが「本当に望んだ国の姿なのか」と問われれば、彼女はうまく答えられない。
しかし、今さら後戻りして混乱を招けば、もっとひどい事態になる可能性が高い――そう思い込むことで、彼女は自分の心を奮い立たせるしかなかった。
「たとえ恐れられても、この国を崩壊から救うためなら……私は最後までやるしかない」
その小さなつぶやきは、執務室の静寂に吸い込まれ、消えていく。
こうして、パルメリアが掲げる革命の名のもとに、社会は急激に「物言えぬ空気」へと変質し続ける。誰もが自分の身を守るために沈黙し、密告を恐れ、裏切りを疑い、ひたすら無関心を装う。かつての“自由”を取り戻す術は、もはや見えなくなっていた。
そして、その混乱の渦中で、レイナーとユリウスをはじめとする「かつての仲間たち」は、「パルメリアをどう救い出すか」あるいは「この国をどうするべきか」と苦悩を深めながら、行動を起こせない自分に歯噛みしている。
かつては明るい未来を夢見て交わした誓いが、今では「恐怖」という闇に呑み込まれかけている。それを押し戻すにはどうすればいいのか、誰も正解を持たないまま、日々が過ぎていく。
夜が深まると、町の通りから人影はさらに消え、あちこちで民家の灯りが一斉に落ちる。まるで暗闇のほうが「自分たちを隠してくれる」と信じるかのように。
この国を支配しているのは、表向きは「大統領パルメリアが率いる新政府」――しかし、その背後には紛れもなく「恐怖」という大きな影が巣食っていた。誰もが心の奥底で感じている。これがいつまで続くのか、そして次に粛清の対象となるのは誰なのか。
そうした不安を打ち消すように、ある者は必死に笑い、またある者は自分の家に閉じこもる。その結果、人々はますます分断され、対話は消え、沈黙だけが広がっていくのだった。
――国を守るための強権が、いつしか人々の心を蝕む「恐怖の支配」へと変貌している現実。その核心を、パルメリアは知りながら、なおも「仕方がない」と前に進む。
もはや誰もが彼女に異を唱えることをためらい、口を閉ざしたまま。革命の熱狂とは裏腹に、この国はゆっくりと「何も言えない社会」へと変質していく。やがて誰もがそれを当然と受け止め始める頃には、「本来の自由」は遥か遠くへと消え去っているかもしれない――。




