第60話 恐怖の支配②
同じ日の午後、外務を担当するレイナーが執務室を訪れた。彼は少し前に、隣国の使節と交渉を行っていたが、「このまま強制的な粛清や逮捕が続くなら、貴国との通商はリスクが高い」と断られて帰ってきたばかりだった。
疲労をにじませたレイナーが、執務室の椅子に深く腰掛け、切り出す。
「パルメリア……隣国から明確に不信感を持たれている。このまま強引に反政府活動を封じ込める方針を続ければ、経済封鎖や制裁を考える国が出てきてもおかしくない。――外交が成り立たなくなるぞ」
その言葉を受けたパルメリアは、書類に目を落としたままかすかに目を伏せる。
やがて静かな声で答えた。
「わかってる。けれど、今はまだ国内の混乱を抑えるのが先決よ。他国の思惑に振り回されて、旧貴族や反政府派が息を吹き返したら、元も子もないじゃない」
「でも……国が孤立してしまえば、経済が立ち行かなくなる。農村や都市部の物資供給が滞れば、さらに民衆の不満が高まるだけだよ。もう少し穏健なやり方は――」
「レイナー、私だって好きでこんな措置を取ってるわけじゃないの。でも、まだ地方では武装蜂起の可能性がある。ここで中途半端に緩めて被害が拡大すれば、どれだけ犠牲が増えるか。……私は、その責任を負えない」
そこには、ある種の疲弊と決意が同居するような響きがあった。レイナーはそれ以上言葉を重ねられず、拳を握りしめたままうつむく。
「……わかった。きっと君を止めることはできないんだろうな。僕は外務として、少しでも国際的な批判を和らげる方法を探すしかない。だけど、このままじゃ――」
レイナーが声を詰まらせると、パルメリアはちらりと彼に目を向けた。かつて一緒に夢を語り合い、王政を倒したときには固い絆を感じていた仲間。しかし今は、互いに譲れぬ一線を越えてしまっているかのような隔たりがあった。
レイナーは肩を落とし、重い足取りで執務室を後にしていく。見送るパルメリアの胸には、言いようのない痛みが走るが、振り返ることはしなかった。
レイナーが去った後ほどなくして、内務を担当するユリウスもまた執務室へと足を運んだ。
彼は元々「革命のリーダー格」として民衆に人気が高く、王政の腐敗を鋭く糾弾していた人物である。だが今、その肩書を生かすどころか、「パルメリアと自分との理念の差」に思い悩み、内務業務の合間にも独り苦い顔をしている姿が目撃されていた。
執務室の扉を開け、ユリウスは短く挨拶をした後、切り出す。
「パルメリア、今の取り締まりはやりすぎだ。反政府の疑いがあるってだけで、問答無用で財産を没収される者も出ている。どう説明するつもりなんだ?」
彼の声には怒りというより、悲しみと苛立ちが入り混じったニュアンスがあった。
パルメリアは冷静を装うように息を整え、答える。
「……ユリウス、あなたも知っているでしょう? 今、あちこちで旧貴族の勢力が再起を狙って動いてる。証拠が不十分なケースもあるけれど、私は『可能性』を潰しておかないと、取り返しがつかなくなると思っているの」
「可能性、可能性って……そんなことを言ったら、誰だって逮捕できるぞ。まるで王政時代の『秘密警察』と何も変わらないじゃないか」
「違うわ。私は民衆を守るためにやってるの。王政のときは貴族が好き勝手に民を虐げていた。でも、もし今ここで私たちが手を緩めれば、あの地獄が再来するかもしれないのよ」
ユリウスは苦しげに額に手を当てる。
(確かに……王政の悪夢は消えていない。それを全力で潰さなければ、あのころの圧政が戻ってくるかもしれない。だけど、このまま「恐怖」を振りまいて人々を黙らせるやり方は、本当に正しいのか?)
「革命のとき、俺たちは何を望んでいたんだ? 自由に物を言い、誰もが平等に生きられる世界じゃなかったのか? 今は、むしろ逆行しているように見える。……頼むよ、もう少しやり方を考えてくれ」
その言葉にも、パルメリアは揺らがない。
ただ、声のトーンがかすかに低くなる。まるで自分にも後ろめたさがあるのを隠すように。
「革命を守るためには、犠牲が必要なときもある。私は、どんなに憎まれても構わない。……でも、国が滅びることだけは避けたい。あなたも理解してくれると信じてる」
ユリウスは言い返したかったが、うまく言葉が出てこない。胸中に燻る怒りと悲しみ、そして彼女への信頼との板挟みになっているのだ。
結局、「わかったよ……」と絞り出すように言い残し、彼もまた背を向けて執務室を後にした。
こうして、レイナーもユリウスもパルメリアを止められないまま日が過ぎていく。
結果、首都周辺ではさらなる警備体制の強化が行われ、「少しでも政府に不満を述べる者は、何かしらの嫌疑をかけられる」という恐怖が定着し始めた。
ある夜半、酒場の薄暗い片隅で酔客たちが集っていたが、ここでも以前ほどの喧騒はない。誰もが小声で話し、周囲の客を警戒している。
「おい、知ってるか? あそこの石工の親方、ちょっとした愚痴を言っただけなのに『反政府思想あり』って密告されて、捕まったらしい」
「マジかよ……。どんだけ狭量な世の中なんだ。革命のときはもっと活気があったのに」
だが、その小声を聞きつけた別の男が、慌てて制止する。
「やめろ。こんなところで大統領の批判なんかするな。店のどこに密告者がいるかわかりゃしない……」
酔客たちはハッとして、互いの顔を見合わせ、結局何も言えなくなってしまう。店の奥では怯えた顔の店主が、客の動向を伺いながら、いつでも通報できるように近くに保安局の連絡書を置いている――という噂もある。
(もう誰も信用できない。もしかしたら自分の隣に座っている客が密告者かもしれない。政府が掲げる「国を守るため」という言葉は聞こえはいいが、その裏には恐怖による支配が潜んでいる)
そんな不安が、市民の心をどんどん覆っていく。子どもたちさえ「大統領様に逆らうと怖い目に遭うんだよ」とささやき合い、家族でさえ政治の話をしなくなった。かつての王政時代にも自由は乏しかったが、いまの「恐怖」はそれ以上かもしれない――そう感じる者が少なくない。
議会においても、もはや自由な意見交換はほとんど行われなくなった。
革新的な議員たちは「今こそ議論を尽くすべきだ」と主張する者もいたが、すぐに「反乱分子予備軍」との烙印を押されて黙らされる。ある議員が演説で「大統領令の一部撤回を要請する」と声を上げた翌日、彼は「保安局の取り調べを受けることになった」と噂が広まり、議会は一気に萎縮してしまった。
薄暗い議会の廊下に集う数名の議員たちも、ひそひそ声で会話するのが精一杯だ。
「もう発言なんてできるはずがない。ちょっと言葉を間違えたら、すぐに『反政府』扱いされる……」
「かと言って、黙っていたら国がどんどんおかしい方向に進む。どうすればいいのかわからない」
そう嘆く彼らだったが、最終的には誰も行動を起こせなかった。自分や家族が逮捕されるリスクを考えると、声を上げる勇気が出ないのだ。結果として、パルメリアの強権はさらに盤石になり、人々の沈黙を糧に「恐怖」の輪が広がっていく。
(これほど多くの人々が議会にいながら、誰一人抵抗できないなんて……もし革命前に戻れたら、こんな惨状にはならなかったのか?)
そんな後悔にも似た思考が頭をよぎっても、もう遅い。強大な権力を振るう存在の前では、全員が無力を痛感するしかないのだ。
市民や議員の不安が深まるなか、レイナーとユリウスはそれぞれ仕事に追われながら、数少ない機会を見つけては言葉を交わす。
ある夕暮れ時、議会の端にある応接室で二人きりになれたとき、ユリウスは苛立たしげに声を上げた。
「レイナー、お前は外務としてこの状況をどうにかできないのか? このままじゃ、国が内外から孤立するのは目に見えているだろう。パルメリアだって、本当はこんな道を望んでいたわけじゃないはずだ」
「わかってるよ。だけど、僕がどれだけ他国の使節に弁明しても、『国内の粛清が事実』である限り、誰も信用してくれない。むしろ『王政時代より酷い独裁に陥っている』って声が高まってるんだ」
レイナーの声には諦め混じりの苦悩がにじむ。
ユリウスは拳を握り、声を荒らげた。
「結局、パルメリアを説得するしかないんだ。彼女が方向転換してくれれば、この国はまだ救われる……俺が何度言ったところで、きっと執務室から出てくるのは逮捕命令ばかりだが」
「彼女も限界なんだと思うよ。王政を倒して、新しい秩序を作る重責を一身に背負い込んでるから……。でも、その結果がこうして『恐怖』による支配じゃ、誰も幸せになれないよ」
二人は、ため息のような沈黙を共有する。かつて王政を打ち倒したときには、大勢の仲間と手を取り合い、笑い合い、涙を流して自由を喜んだ光景があったはずだ。それなのに、今は立ち止まれば混乱が一気に爆発するかもしれない――そんな抑圧が彼らをも翻弄している。
やがて、レイナーがぽつりと言った。
「……僕たちは、もう見守ることしかできないのかもしれない。いや、見守ることさえ辛いが……万が一、パルメリアがこの先さらに過激な手段を取るようになったら、僕たちはどうすればいい?」
「わからない。だけど、俺は……最後まで諦めたくないよ。少なくとも、王政の悪夢を繰り返すわけにはいかない。パルメリアを救えるなら、俺はやれるだけやる」
そう語るユリウスの瞳には、まだかすかな希望の火が見えた。だが、レイナーの表情は複雑だ。彼自身も、すでに外交の場で「パルメリア政権は危険」という烙印を押されかけている現実を痛感していたからだ。
結局、二人はそのまま言葉を尽くせぬまま部屋を後にし、それぞれの職務に戻っていった。




