第58話 強権への第一歩①
翌朝――灰色の雲が低く垂れ込める空の下、まだ夜の雨で濡れた石畳の残響が、首都の目抜き通りに淡く広がっていた。太陽は顔を出す気配もなく、長く尾を引く曇天に包まれたまま。路地のあちこちに水溜りが生じ、屋根からは雫が落ち続ける。
そんな重たい朝の空気のなか、革命後の暫定政権に仕える官吏たちは早くから動き出していた。誰もが眠たげな顔で書類を手にし、議事堂や役所の各部署へと走る。けれども、その姿にはどこか緊迫したものが感じられる。先日発令された非常事態宣言が、既に街全体に重苦しい影を落としていたからだ。
若い官吏の一人が、大統領府の執務室へと急ぎ足で向かう。彼の背広には水滴が染み込み、髪も無造作に濡れている。両腕には大量の書類が抱えられ、それを落とさないよう必死にバランスを取りながら廊下を駆け抜ける。
警備に立つ兵士たちは、少し前までなら見かけなかったほど厳格な態度で敬礼を返すが、その目は警戒を帯びている。非常事態宣言下で、首都は「特別警戒区域」に指定され、武装した警備隊が要所要所に配置されるようになったためだ。
「大統領閣下、失礼いたします!」
官吏が濡れた靴で執務室に飛び込むと、そこにはパルメリア・コレットの姿があった。彼女は見慣れた机の前に立ち、朝から山と積まれた書類を前にペンを握っている。金髪はざっくりとまとめられ、眉間には疲労の色がにじむ。しかし、その瞳には強い意志の光が宿っていた。
「こんなに早くからご苦労さま。……それは、昨日言っていた『新たな大統領令』の最終案かしら?」
パルメリアは硬い声で問いかけながら、官吏が抱えてきた分厚い書類の束をそっと受け取る。官吏は深く頭を下げ、「はい、各部署とのすり合わせが今朝方やっと終わりまして……」と語尾を震わせる。これほど急な動きは、革命直後の混乱時ですら稀だった。
革命を経て大統領になったパルメリアは、王政を倒した「英雄」として崇められた時期があった。しかし、今は非常事態宣言を機に、「力づくで支配しようとしているのではないか」という批判や疑念の声が少しずつ広まっている。
彼女はそんな世論を十分理解していたが、地方の武装蜂起と首都周辺の不穏な動きを放置する余裕などないと判断し、強硬策を取る決意を固めている。その一環として、議会を通さずに即時発効可能な「大統領令」の権限を拡大しているのだ。
パルメリアは執務机にドサリと置かれた書類を取り、素早く目を走らせる。さらに加筆や修正が必要な箇所を見つけるたび、ペンを走らせて指示を書き込み、周囲の官吏に命じる。
「ここ、もっと具体的な文面が必要だわ。たとえば……『一部地域の軍事優先権』『反乱の疑いがある場合の拘束要件』など、あやふやにしないで。厳格に書かないと混乱が広がる。急いで再調整してちょうだい」
官吏たちは顔を強張らせながら、「わかりました……」と応じ、書類を抱えてバタバタと室外へ出て行く。政権内部でもこの「権力集中」に戦々恐々としている者は多いが、彼女の決定に逆らえる空気はなくなりつつあった。
なぜなら、革命直後の混乱で形だけ整えられた議会は、まだ十分に機能しておらず、迅速な意思決定ができない状態だ。そんな状況で、各地で発生する暴動や反乱を抑え込むには、強い指導力が必要だという意見も無視できない。
パルメリア自身も、「こんな強権は理想とかけ離れている」とわかっているものの、今はそれ以上に国を壊したくないという気持ちが勝っていた。
その日の昼下がり、パルメリアは執務室にこもったまま、次々と差し出される大統領令の草案に目を通し、サインと押印を繰り返していた。
木製の机に積まれる文書は多岐にわたる。治安維持を名目にした「警察権の強化」、旧貴族や反政府派の財産差し押さえ権限を新政府に委任する命令、軍備再編に関する大統領専決権の拡大――どれもが、議会の審議を経ずに即時施行されるように作られている。
パルメリアは時折、押印する手が震えるのを自覚しながらも、決してその動きを止めようとはしない。
(この国を守るために。混乱を止めるために……。どれだけ批判されても、私は前に進むしかない)
印鑑を押すたび、机の上に積まれていく厚い書類に目をやると、かつて王政の腐敗を糾弾していた自分の姿が、どこか遠い昔のことのように思われる。だが、だからといって後戻りはできない。ここで弱さを見せれば、旧貴族派や反乱分子が勢いを増し、さらなる血が流れるに違いない――そう確信しているのだ。
執務室の奥に控えている閣僚や官吏たちは、いつも以上に沈黙している。時折、書類の束を抱えた若者が「大統領閣下、別室で緊急会議が……」と声をかけるが、パルメリアは小さくうなずくだけ。ここまで強権を握る彼女に、誰も公然と異を唱えることはできなくなっている。
新たな大統領令の発布により、首都の空気はさらに緊迫したものへ変化した。
街を行き交う市民の間では「いよいよ新政権が本気で力を振るうらしい」「議会を無視して大統領令ばかりじゃ、王政と変わらないじゃないか」などとささやかれる。だが、多くの人は声を潜め、誰かに聞かれないよう警戒しながら話す。もし保安局に密告されれば、危険分子として逮捕されかねないという恐れが根付いていた。
ある古い議会の控室では、数名の中堅・若手議員が息をひそめるように集まっていた。彼らは革命当時から「自由な議会制」を求めて闘っていた者たちだが、パルメリアの大統領令連発に違和感を隠せない。
「これでは、我々は何のためにいるんだ……大統領閣下が全てを決め、我々は後追いするだけじゃないか」
「非常事態宣言だけならまだしも、議会を通さずに行政権限を拡大してしまうなんて……こんなはずじゃなかった」
そんな嘆息混じりの言葉に、周囲の者もうなずくだけ。しかし、口を開こうとする者はいない。下手に反対意見を大きな声で発したら、保安局や強硬派に「国を乱す裏切り者」として目をつけられるかもしれないのだ。
このようにして、議会では事実上何も議論ができない空気が生まれ、「自由な発言」が王政打倒の後わずかの間だけ輝いていたが、今やその光は急速に萎んでいく。




