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第1話 悪役令嬢の運命①

「……はあ。やっと仕事が終わった」


 感情を押し殺すようにしてついた大きな溜め息が、自分の耳にもはっきりと届く。オフィスビルを出て最寄り駅の改札を抜けたのは、すでに夜の十一時を回った頃。いつものように街灯の光はまばらで、通りを行き交う人も少ない。仲間の何人かはとっくに残業を切り上げて帰宅したはずなのに、自分だけがつい先ほどまでバタバタと書類と格闘し、終電ギリギリの時間へ突入しかけているのだ。


「今日こそ、早く上がれるって思ってたのになあ……」


 誰に向けるでもない弱音をつぶやいて、そそくさと夜道を進む。ヒールの足元がじんわりと痛むけれど、ここで立ち止まると足がすくんで動けなくなりそうだ。せめて夜更けになる前には家に帰り着いて、シャワーを浴び、布団に倒れ込みたい。


(それにしても……ああ、明日は休みで良かった)


 唯一の救いは、明日が休暇だという点。毎日終電近くまで働いていては、まともに寝る時間すら足りない。数日前から楽しみにしていた「休日に思い切り眠れる」という些細(ささい)な願いが、私にとっては生き延びるための最後の希望みたいなものだった。


 だけど、それだけじゃない。実はもう一つだけ、朝のわずかな時間を使ってプレイしていた乙女ゲーム『エターナルプリンセス』の続きが気になって仕方ないのだ。


「ああ、あのヒロインと王太子の恋の行方、どうなるんだろう……。あともう少しで盛り上がりそうなところで止めちゃったし」


 現実ではこんなに疲弊しているのに、ゲームの世界は華やかで、キャラクターたちはみな美しく、きらびやかな恋模様を繰り広げている。もちろん、ヒロインだけが苦難に遭うわけではなく、敵役として登場する「悪役令嬢」や、その周囲の複雑な事情が描かれていて意外に奥が深い。


 しかし、そんな現実逃避の願いも虚しく、足を踏み入れた夜道は静寂に包まれ、やけに冷たい空気が肌を刺す。人気の少ない裏通りを通って近道しようと、足早に歩き始める。薄暗い照明しかない狭い道は、いつ歩いても不気味な雰囲気だ。


「ああ、もう……眠い、早く帰って寝たい。シャワーだけでも浴びたらちょっとは復活……」


 そうつぶやきかけた瞬間。


「え……?」


 視界の端を横切る、黒い塊のようなもの。何かが猛スピードでこちらへ突っ込んできていた。明かりが弱いせいで、相手は人なのか車なのかも一瞬わからなかった。だが、体が危険を直感し、反射的に横へよじろうとする。


「え、嘘、待って――!」


 ――ドンッ。


 逃げるより先に、鋭い衝撃とともに金属が激しくぶつかる音が耳を裂いた。頭が揺らされ、全身が宙へ投げ出されるような感覚に襲われる。


 痛い。とてつもなく、痛い。息が詰まって声も出ない。自分がどうなっているのか理解できないまま、視界がぐるぐると回転しているようで、耳鳴りだけがやけに大きく響いた。


(やだ……こんなの……私、死んじゃうの……?)


 うっすらと浮かんだ疑問はすぐに闇へと呑み込まれる。周囲から誰かが叫ぶような声が聞こえた気がする。でもそれも遠ざかっていき、視界がどんどん黒く閉じていく。痛みを感じる間もなく、意識は急速に希薄になっていった。


(……ああ、パルメリア・コレット……)


 頭の中に、最後の一瞬だけスマホの画面がちらりと浮かぶ。そこには華やかなドレスをまとい、まるで絵画から抜け出したように美しい少女――パルメリア・コレットの姿。ゲームでは「悪役令嬢」とされ、悲惨な運命を辿(たど)ると聞いていたキャラクター。


 その名前を思い浮かべた瞬間、私の意識は完全に閉ざされた。何も感じない、真っ暗な闇の中へ、ストン……と落ちていく。



 ――次に、ふっとまぶたが開いた時。


 あまりにも柔らかなシーツとふかふかの感触に、思わず「ここはどこ……?」と声を出しかける。しかし、部屋に満ちる空気は、生き生きとした花の香りと淡いレースのカーテンの揺らぎで満たされ、現実感がまるでない。


「え……?」


 自分の口から出た声が、予想以上に澄んでいて驚く。まるで録音を聞いているかのような、自分のものではないような音色だ。


 そっと身体を起こし、周囲を見渡す。豪華な天蓋付きベッド、アンティーク調の調度品、そしてドレッサーが部屋の片隅に鎮座している。


「……こんな部屋、一度も見たことない。まるで、どこかのお城……?」


 頭が痛い。思考が追いつかず、現実を受け止めるより先に体が先に目覚めてしまった感じ。


(私、交通事故にあったはず……確か、猛烈な衝撃と痛みがあったのに? 病院とかじゃないの……?)


 そんな疑問を抱えつつ、慌ててベッドを降りようとして、ふとドレッサーの鏡に目を止める。その鏡に映る姿は……


「な、何これ……? 私じゃない……!」


 驚きに息を詰まらせる。金色の柔らかな髪がふんわりとウェーブしていて、やや大きめの瞳は深い青色。肌はまるで陶器のように白く、首すじや手足がほっそりしている。まるで人形のように整った少女が、そこに映り込んでいた。


 混乱の嵐が頭の中を駆け巡る。どんなに目をこすっても、この姿は消えない。鏡に映る少女は、まばゆいほどの美貌を保ったままこちらを見返してくるのだ。


「私……こんなに綺麗じゃなかったし、そもそも金髪でもないし……」


 自己否定じみた言葉を吐き出していると、控えめなノックの音が部屋に響く。


「お嬢様。そろそろお目覚めかと……少しお部屋へ伺ってもよろしいでしょうか?」


 どこかおっとりした女性の声。いかにも優秀そうな侍女の口調だが、「お嬢様」という呼び方にさらに心臓がバクバクと高鳴る。


(私がお嬢様……? あり得ない……。ただの会社員だったのに……)


 返事もそこそこにドアが開き、上品な身なりをした侍女が入ってくる。彼女は私の姿を見るなり、ふわりと微笑んで顔を綻ばせた。


「ご気分はいかがですか、パルメリア・コレット様?」

「……え、今、何て?」


 思わず尋ね返してしまう。


「パルメリア・コレット様、と申し上げましたが……? お身体の具合が優れないようでしたら、すぐに侍医をお呼びします」


 頭が真っ白になる。そんな私の狼狽をよそに、侍女は心配そうに覗き込んでくる。さらに、彼女は「コレット家のお嬢様」である私が倒れたので、急いで看病の準備をしていたと話し始めた。


(パルメリア・コレット……って、あのゲームの「悪役令嬢」じゃない? 確か、最悪のルートで追放や処刑になるキャラだったはず……!)

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