6・
「――猫ちゃん! 猫ちゃん、しっかりして!」
血を流し、体力も底をつき、冷え切った体で何とか呼吸を繰り返していると、ふわりと温かい布が巻かれた。それは、セリーヌの上掛けだった。
セリーヌは寒さに震えつつも、ロガンを上着ごとギュッと抱きしめ、「大丈夫。大丈夫よ」と声を掛けながら、人間の病院に連れて行った。
そこで適切な処置を受け、セリーヌの手厚い看病の末、ロガンは徐々に体力を取り戻していった。しかし、何故か獣化が解けない。
仕方なく、獣化している間は大人しくセリーヌの側にいることに決めた。
「沢山の小さなポツポツと、一つの大きな穴。白い息を吐きながら、ついつい見つめてしまうもの、な~んだ?」
セリーヌは当時、ベルヴェルデという小さな街で暮らしていた。
日中、母リリーは花屋を営んでいた。
その間、セリーヌは店の裏手にある小さな家で、母の帰りを待っていた。
家事の一切を、ロガンを話し相手にしながら、小さな手でこなしていた。
「正解は、夜空! お星様とお月様が浮かんで、冬の方がなんだか綺麗でしょう? ムーンの毛並みは、まるで冬の夜空みたいね。とても綺麗で、私、大好きよ」
そう言って、自分を撫でるセリーヌの手が心地良かった。
セリーヌは、『謎かけ』が好きだった。そして、その答えは必ず彼女の『好きなもの』。そのことに気が付いた後は、答えに自分に関連する物が登場する度に、感じたことのない満足感を得た。
抱きしめられ、セリーヌの温もりと鼓動を感じながら眠った夜――その安心感に、生まれて初めて涙を流した。幸福に感謝し、同時に失うことが恐ろしくもなった。
彼女の瞳に映る、彼女の『好きなもの』がロガンの世界を彩り始めた。それまで灰色に覆われていた景色が、一つ一つ鮮やかな色を取り戻していくようだった。
けれど、ロガンの犯した罪は、彼が最も大切にするものを脅かす形で報復に来た。
◇◇◇
その日、リリーは配達のために花屋を離れていた。
セリーヌは、いつも通り家事をこなしていた。
街の井戸で水を汲み、服を洗い、家の裏に干していた。
ロガンは、すぐそばの草むらで昼寝をしていた。
ふと――妙な気配を覚えた。
いつも鼻歌交じりに作業をするセリーヌの声が聞こえない。
そして、嗅ぎ慣れた――血の匂い。
慌ててセリーヌの元へ駆けつけると、血にまみれた彼女の姿があった。
ロガンに奇襲をかけた同族の男が、セリーヌの髪を掴み、引きずっていた。
ロガンは低く唸りながら、その男に語りかけた。
『その手を……離せ』
「――ロガン、か? はは、何だその姿は。道理で見つからないはずだ。お前の見た目なら、人間の時でも獣化した時でも目立つだろうと森の中ばかり探していたからな」
『その子に……何故、手を掛けた!』
男は目を大きく瞬かせ、次の瞬間、堪えきれないとばかりに嘲笑を漏らした。
血の気を失い、青ざめたセリーヌの体を持ち上げる。まるで狩りに成功した得物のように、男は得意げに見せつけた。
「これがそんなに大事なのか? 確かに大人になれば美しいかもしれないが――たかが人間だ。弱すぎて、そのうち何もしなくても死んじまう。無意味な時間を無意味に生きる小動物だ」
その醜悪な顔が――以前の自分と重なった。
ロガンもまた、そう信じていた。
強さこそ全て。弱者には、生きる価値すらないと。
ロガンは自らに問いかけた。
セリーヌがくれた時間は、本当に無意味だったのか。
なぜ、セリーヌとリリーが笑いながら食事をしているだけで、あんなにも心が安らいだのか――。
セリーヌの『好きなもの』は、小さな花や小鳥といった、ごく些細なものばかりだった。それなのに、彼女が大切にする一つ一つが、自分にとっても愛おしく尊いものに思えた。それは、どうしてなのか。
(無意味なんかじゃない……)
ディランが小さな命を必死に守ろうとしていた理由を、ようやく理解した。
破壊するよりも、築き上げ、守り抜く方が遥かに難しい――その真実を、初めて悟ったのだ。
その瞬間、セリーヌが激しく咳き込み、鮮血を吐き出した。
その光景に、ロガンの胸の奥から、これまで味わったことのない激しい怒りが沸き上がる。
気が付けば――ロガンの体は膨れ上がり、鋭い牙と爪を持つ、圧倒的な威容を誇る獣へと変貌していた。
事は、一瞬の内に決した。
セリーヌの体をそっと咥え、無残な姿になった男の手から引き離した。
セリーヌの鼓動は、少しずつ弱まっていく。
ロガンは、涙を零しながら祈ることしかできなかった。
『……頼む! 獣の神よ……もし加護を与えてくれるのなら、どうかセリーヌの命を救ってくれ! 俺がどうなろうと構わない。俺にできることなら、何でもする! だから、どうか彼女を……』
その時――ノソ、ノソと地面を踏みしめる重い音が聞こえた。
気が付くと、目の前には真っ白い豹が立っていた。
圧倒的な存在感に、ロガンの足は竦む。
動けずにいるロガンをよそに、白い豹はセリーヌに近付き、その傷口付近に口をつけた。すると、柔らかな白い光が舞い上がり、光が収まると同時にセリーヌの傷はすっかり塞がっていた。
傷だけではない――白い豹も、血の跡も、そしてあの男の姿さえも消え去り、まるで最初から何も起こらなかったかのように穏やかな時間が流れていた。
そして、ロガンは完全に力を取り戻し、人間の姿に戻っていた。
洗濯物の中にあったシーツを借りて体に巻き付け、セリーヌを慎重に抱き上げてベッドへ運ぶ。彼女の額にそっと口づけをし、再び獣化してセリーヌとリリーの家を後にした。
そこから先、自分が成すべきことが不思議なほど明確に分かっていた。
(――まずは、獣人の国の体制を変える。それを成し遂げたら、セリーヌを迎えに行く)
獣は、欲しい女を見つけたら命を賭けるものだ。
ロガンの中に迷いは一切なかった。
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