5・
一国の王が、長く国を空けるわけにもいかない。
ロガンはルメローザの王城を出ると、馬を駆って急ぎ国境を目指した。
自ら走ればより早いだろうが、ルメローザの王都を騒然とさせ、騒動にでもなったら面倒だ。
国境近くの検問所でディランが札を見せ、一行は馬を預けて転移門を潜る。
目眩のような感覚が一瞬走り、気づけば目の前には見慣れたバル・グラードの森が広がっていた。
(――転移魔法とは、便利なものだな)
バルの民が転移門を使うことは稀だ。
転移門を使うには、所有者の許可がいる。複雑な手続きを踏むのは面倒だし、ほとんどの場所に自分たちの足で難なく行けてしまうからだ。
ルメローザの王都からバル・グラードの王都までは、馬を走らせれば約一カ月の道のり。転移門を使えば半日ほどで辿り着くが、獣化したバルの民ならば、およそ五日で到達できる。それが、転移門を使えばわずか数十分で済む。
茂みの奥から、人の倍――いや、それ以上の大きさの黒豹たちが次々と姿を現した。その中でも一際大きな黒豹が、ノソノソと地を踏みしめながら近づき、ロガンの前で頭を下げる。
「――ラゾ。来たのか」
来ずとも良かったのに――というニュアンスを込めてロガンが告げると、黒豹ラゾが頭の中に直接響く声で応じた。
『礼装を破り獣化するわけにもいかんだろう。それで、憧れの姫君には会えたのか?』
「ああ……まあな」
ラゾはどこか浮かないロガンの様子に目を丸くし、周囲を見回す。目的の人物がいないことに気づくと、ディランへと視線を向けた。ディランは困ったように眉尻を下げて答える。
「思わぬ抵抗に遭いました。……が、もう少し押せば少々強引にでも連れて来られた気もするのですが」
ディランが視線をロガンに送る。
けれど、ロガンは、無言のままラゾの背にひらりと跨る。他の面々も、迎えに来た黒豹達に乗り、森の中を進むことにした。常人の目には映らないほどの速さで走る中、聴覚が鋭く、そのスピード感に慣れている彼らには、会話する余裕さえあった。
『なぜ花嫁を連れてこなかったんだ? 今のそなたなら、問答無用で連れ帰ることもできただろう』
「……怖がっているように見えたんだ。無理もないだろう。獣人に会うのは初めてだったはずだ」
風が切り裂くように耳を掠め、ロガンは枝を躱すたびに身をしならせる。
獣人の性か、走っている瞬間がとても気持ち良い。
隣に追いついたディランも、どこか楽し気に頬を輝かせながら尋ねる。
「そもそも、何故婚約式早々『威嚇』を? ルメローザの者達への牽制ですか?」
「『威嚇』? 何の話だ」
獣人にとっての威嚇とは、そのまま動物たちの『威嚇』と大きくは変わらない。
相手を牽制し、相手の力量を推し量ることにも繋がる。
しかし、もしロガンが本気で威嚇したなら、あの会場に立っていられる者はいなかっただろう。
ロガンが首を傾げていると、困惑したようにディランは子細を話す。
「え~、……番様が入場された時です。一瞬でしたが、強い気を感じたのですが」
『なんだ、何の話だ』
番とは、獣人族では伴侶のことを示す。
その言葉に僅かに頬を染めながら、ロガンは当時の自分の状況を冷静に振り返った。ディランの話と自身のその時の心情を結び付け――何が起こっていたのかを悟り、ぶわっと耳まで赤みが広がった。動揺しすぎて、あわやラゾから落下するところだった。寸でのところで頭を伏せ事なきを得たが、顔が上げられない。
「……たんだ」
「は?」
「……彼女があまりに綺麗で、吃驚したんだ」
ボソリと呟かれた言葉に、ディランとラゾは唖然とする。
ロガン・ドライゼン――獰猛で独善的なバルの長達を押し退け、血の粛清の末頂点に上り詰めた新生バル・グラードの王。国を大きく生まれ変わらせた賢王であり、バル最強の戦士。
そんな彼が、一人の少女の前で正気を保てないほど動揺するとは――開いた口が塞がらない。
彼らの想いも他所に、ロガンは大聖堂に現れたセリーヌを思い出し、さらに胸を高鳴らせた。
(……白いドレスをまとった彼女は、柔らかな光に包まれた女神そのものだった。それだけではない。白い頬は、純真さが内から溢れ出しているように滑らかで、優雅にカーテシーをする姿は、胸を締め付けるほどに……――可愛かった)
幼い頃もたまらなく愛らしかったが、年頃に成長した彼女はロガンの予想を遥かに超えていた。あの見た目で、あんなにも可愛らしい『謎かけ』の手紙を書いているなんて――反則でしかない。
(他の男どもにその姿を見せたくなくて思わずマントを貸したが、彼女が俺のものを身に着けているというだけで……堪らず、抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった)
ルメローザの王の話など、これっぽっちも頭に残っていない。顔すら朧気だ。
それ程までに、すべての意識がセリーヌに集中していた。
ディランの心遣いで隣に座ったが、緊張しすぎて、表情を取り繕うことさえ出来なかった。
ディランは、ロガンの新たな一面を興味深げに眺めつつ、記憶を蘇らせて眉根を寄せた。
「あ~……だとしたら、その、もしかしたら、不味いかもしれません」
「……? 何がだ」
「番様、勘違いしてるんじゃないかと。僕の聞き間違えじゃなければ、あの時、ロガン様は『見るに堪えない』と……」
『そんなこと言ったのか⁉』
「……? 何が問題なんだ? 俺は、あまりに眩しくて直視できないと……」
言いながら自分の言葉選びの間違いに気が付く。
ロガンは、サッと顔を青褪めさせた。
「僕でさえ、『あれ? ロガン様が彼女を番にと望んだんじゃなかったっけ?』と不安に思ったので、何も知らない彼女はきっと……」
『侮辱されたと思うだろうな』
ロガンは、遮る枝葉を顔面で受け、遂にラゾから落下した。
ディランは乗っていた黒豹を慌てて止め、ラゾも足を止める。
もちろん、丈夫な彼に怪我など無いが、無様に髪は乱れ完全に呆けてしまっている。しかしそれも刹那――飛び上がるように立ち上がり、元来た道をヨタヨタと歩き始めた。
「――戻る」
「え? え? ちょっ、まっ……」
「戻って、赦しを乞う。誤解だと土下座して、彼女の素晴らしさを語ってくる」
『手土産ぐらい持っていけ』
ラゾがすげなくそう言うと、ロガンはピタリと足を止めた。
額に汗を滲ませながら、深刻な顔で振り返る。
「――……クプロスの王冠くらいで良いだろうか?」
「そ、それは、国宝……って、そうじゃない! お待ちください! 今戻ったところで、夜になります! 婚姻前のご令嬢の部屋に夜間押しかけるなんて、それこそ軽蔑されます!」
ディランが腹の底から叫び、再び歩き始めていたロガンの動きがようやく止まる。ロガンは膝を付き、青褪めた顔を両手に埋め、子どものように弱々しい声を出した。
「――彼女に嫌われたら生きていけない」
ディランとラゾは一度視線を交わし、深く溜息を吐く。
まさか自分達の君主がこんな風に取り乱すなど、思いもよらなかった。
「ひとまず城に戻りましょう。冷静になり、対策を練るのです。――番様が共に暮らしやすいようにと、傾いていた国を整えたのではないですか。もう一歩です」
『ははは、それは良い。傾国の美女も、国が元々傾いていたら逆に働くのか』
ロガンは二人に引き摺られるようにして城に戻った。
道すがら、セリーヌとの出会いを思い出していた……――。
◇◇◇
獣人は、神獣の加護を受けているというだけで、基本的には人間と変わらない。しかし、その加護がどの種によるものなのか、またどの程度その力が体に浸潤しているのかによって、能力には大きな違いが生じる。
ロガンは、豹の神の加護を賜る一族に生まれた。その獣化した姿や、強靭な顎の力、水中での適応力から、彼の能力は黒ジャガーの特性に近いのではないかと推測されていた。しかし、そもそも神獣が自らの種を名乗ることはなく、その正体や由来については漠然とした部分が多い。――故に総じて、『豹』と呼ばれている。
豹の中でも、特に『黒豹』と呼ばれる者たちは戦闘に特化しており、他の豹一族とは別々に育てられる。彼らは言葉を覚えるより先に武器を持たされ、幼い頃から体を鍛え、力による支配と統制を叩き込まれる。十歳を超える頃には実践として敵を狩るようになり、そこに親類への情は存在しない。
むしろ、積極的に身内を淘汰し、上を目指すことが当然とされていた――それが『黒豹』の常識だった。
ディランは、ロガンの従兄弟にあたる。同じ『黒豹』の中で育ったが、自分にはその常識が向いていないと頭を悩ませていた。弟分や妹分を手に掛けることができず、むしろ守ろうとさえしていた。そんなディランを――ロガンは、鼻で嗤っていた。
心の内で暴れる破壊衝動。長より依頼を受け、本能が赴くままに多くの敵を狩った。ちなみに、母は『黒豹』ではなく普通の豹だったため、生後間もなく引き離された。母の温もりなど感じたことも無く、日常を疑うこともせず、ただ仕事を成した後の理由もわからない疲労感と空しさを抱え、色の無い世界を生きてきた。
(――彼女に出会ったのは、確か俺が十四歳の頃だ)
十四歳になる頃には、ロガンは最高の戦士、最強の暗殺者だと謳われていた。
獣人が卑しいと言われる所以かもしれないが、各国の貴族達が長を通してロガンに殺戮の依頼をし、時に反逆などにも加担して金を稼いだ。
そんな折――ロガンは奇襲を受けた。
ルメローザでの仕事を終えた、冬の夜だった。
襲ってきたのは同族。『黒豹』は強き者が長になる。
ロガンに長の座を奪われることを危惧した者達による、集中攻撃だった。
さすがのロガンも、同族の先鋭達を相手どれば苦戦する。
深手を負い、獣化――それも幼子の姿になってしまい、彷徨っている所を当時七歳のセリーヌに拾われたのだ。
貴重なお時間を使ってお読みいただき、ありがとうございます。
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