4・
無事に婚約式が終了し、今後の詳細を決めるため、婚姻に関わる主要な人物たちは大聖堂上階の大広間に移動した。
ルメローザ国王をはじめ、その使者たち、ラヴィ―ニュ侯爵、嫡男ジュリアン、そして花嫁であるセリーヌ。
獣人の国バル・グラードからは、国王であり花婿であるロガンと、その側近、さらに数人の使節が残った。
セリーヌの肩には、変わらずロガンのマントが掛かっている。それが視界に入り、思わず手で端を触れてしまう。その厚く重い生地は異国の香りを帯びていて、かすかな異質感がセリーヌの胸をざわつかせた。
座る席も、侯爵やジュリアンの隣かと思っていたのだが、何故かロガンの隣に案内されてしまった。二国の王が向き合うそのすぐ脇にいるなど――名ばかりの侯爵令嬢には荷が重く、緊張で手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
ただ、一つ幸いなことに、獣人達は普通の人間と見た目が変わらなかった。獣人を始めて目にするセリーヌにとっては、何を持って獣人とするのか分からないほどだ。
セリーヌは、ちらりと隣に座るロガンを見る。
慣れも出て来たのか、恐怖心も落ち着き改めてその様子を伺うことが出来た。
見惚れてしまうほど美しい顔立ちではあるが、どんな話題を持ちかけられても一切表情を崩すことが無く、何を考えているのかはわからない。
(この人が……私の旦那様になる人……)
心の中で呟くその言葉の響きに、胸がどきりと高鳴った。しかし、すぐに内心で首を横に振る。
ただでさえ人間というだけで彼にとっては蔑みの対象なのに、まるで彼を馬鹿にしているような恰好で現れてしまったのだ。表情に出さないだけで、きっと嫌悪しているだろう。妾の子でなければ、こんな装いでなければ――もう少し堂々とこの場に立てたのだろうか。
「――……では、ラヴィ―ニュ侯爵令嬢のお住まいに関する御提案なのですが」
諸々の取り決めを進行する為に、ロガンの脇にはロガンの側近のディランが立つ。セリーヌは、自分の名を呼ぶ声に、ドキリと鼓動を跳ねさせた。
当然、婚約期間中はラヴィーニュ侯爵邸で過ごすものだと思っていただけに、どうなるのだろうと興味が頭を擡げる。
「ご存じの通り、我が国は新しい国家体制を築き始めたばかりです。王であるロガンは、多忙を期します。このままでは、ラヴィ―ニュ侯爵令嬢とのお時間を作ることが困難と考えられます」
(……なるほど。そういうことね……)
会う時間は作れないから、次は結婚式で会おうと――政略結婚なんてそんなものかもしれない。あと一年はこれまでと変わらぬ生活が待っているのかと、落胆なのか安堵なのか、よく分からない複雑な気持ちを抱いていると、思いもよらぬ提案がなされた。
「そこで、花嫁修業と言うことで、バル・グランにお越しいただくことは出来ないでしょうか? お部屋は準備出来ておりますので、本日からでも構いません」
ディランのその言葉に、ルメローザ側の全員が驚き、動揺を示す。
セリーヌも、思わず困惑した表情を浮かべた。侯爵邸を出て行きたい気持ちはあるが、やはり単身獣人の国に乗り込むのには勇気がいる。今日会ったばかりの彼らを、信頼できるかわからない。
すると、ずっと微動だにしなかったロガンの表情が僅かに変わる。まるで驚いたように目を見開き、セリーヌを見つめた。意図せず見つめ合う形になり、セリーヌは慌てて視線を下げる。獣人への恐怖心が読み取られてしまったらと思うと――居心地が悪い。
そこに、滑らかな甘い声が響いた。
「――それは、次期尚早なのではないでしょうか?」
ディランの提案に待ったを掛けたのは、ジュリアンだった。
ジュリアンは、貴公子然とした笑顔を崩すことはなかったが、酷く怜悧な眼差しで告げる。
「我々にとって、この婚姻の話は僅か一カ月前に出たものです。花嫁の身支度も勿論ありますし……あくまでも、まだ婚約中の身です。婚姻を正式に結ぶ前に居を移すなど、外聞が悪すぎる。彼女の心証に関わる問題です」
(……どうして、そんな事が言えるの?)
セリーヌの中に怒りが湧き立った。
セリーヌの心証が悪くなったのは、ラヴィーニュ侯爵家の者達がわざわざ吹聴して回ったからだ。「公爵を誑かした妾の子」だと。「この娘も大差ない」と。婚姻を前にして居を移そうが、子を成そうが、「遂にあのラヴィーニュ侯爵令嬢が売りに出されたのか」と人々は面白おかしく騒ぐだけだ。
けれど、セリーヌが何を言ったところで、耳を傾けてくれる者など一人もいない。みな、自分に都合の良い事実を作り上げるだけだ。そんな無力感が、言葉を押し込める。
「しかし……現在、ルメローザとバル・グランを繋ぐ魔法の転移門は、それぞれ国境付近の森の中。新たに王城内に作っている転移門に関しましても、繋げる際は複数の手続きを経る必要がございます。婚約者同士の逢瀬には、些か無粋ではございませんか?」
「家族との時間を奪うことこそ無粋と言うものでしょう。――そもそも、あなた方が大切な妹を預けるに値する方々なのか、まだ判断できない」
ディランの片方の眉がピクリと上がる。
ジュリアンの言葉には、あたかも「妹を心から思っている」という響きがあった。しかし――セリーヌには、その言葉の裏で自分をじっと見つめるジュリアンの執拗な眼差しが伝わってきた。その視線に、無意識に身をすくめ、マントを手繰り寄せる。恐怖がじわじわと広がり、息が詰まるような感覚が押し寄せてくる。
その一つ一つの動作を、ロガンが見ていることにも気づかずに。
ディランは、わずかに語尾を強めて応じる。
「これは、両国の友好関係を示す婚姻と記憶しておりますが、貴公はその前提を覆すおつもりですか?」
「……あくまで妹を思うが故です。広い心でお受け止め頂きたい。それに、両国の友好を示す婚姻であるからこそ、互いに慎重になるべきではありませんか? 相応しい人間は他にいるかもしれない」
「人選に関しては、我が国でも慎重を期した結果です。それに異を唱えると?」
一触即発の空気が漂う。
それを討ち破ったのは、ロガンの低く響く声だった。
「――良い。下がれ、ディラン」
「しかし……」
黄金の瞳がディランを見据える。その鋭さに、その場にいた全員が息を呑む。
ディランは「わかりましたよ」と肩を竦め、一歩引いた。
ロガンは静かに息を吐き、短く考えた末にセリーヌに向き直る。
「……ラヴィ―ニュ侯爵令嬢」
「は、はい!」
突然名を呼ばれ、セリーヌは緊張して背筋を伸ばす。
「そなたは、どうしたい?」
「え……」
「そなたの住まいに関する話だ。本人に決めてもらうのが一番だろう」
まさか自分の意見が求められるとは思わず、セリーヌの瞳が大きく揺れる。どうしたら良いのか、どうしたいのか――正直、自分でも分からない。
何か言わなければと思いながら、唇を何度か開いては閉じる。
最後には俯きがちに、掠れた声で答えた。
「わたくしは……皆様の決定に従います」
ジュリアンがほくそ笑む様子が視界の端に映る。
自分の意見を聞かれたのは初めてだった。
それなのに、こんな言葉しか返せない自分が悔しい――。
顔を上げられずにいると、ロガンが「そうか……」と呟き、セリーヌの答えを受け止めるように頷いた。
「では――ひとまず、ラヴィ―ニュ侯爵令嬢の居はそのまま侯爵邸に留めよう。ただし、私は敵も多い。安全の為にこちらから侍女を遣わす。侯爵には、受け入れて貰いたい」
「……畏まりました」
セリーヌは、侯爵である父が、誰かに対し敬意を示し、深々と頭を下げる姿を初めて見た。その驚きに浸る間もなく、ロガンがセリーヌに向き直る。その視線を受けた瞬間、心臓が跳ねた。
「私もなるべく時間を作って訪れるようにする――その折は、時間を作ってくれるだろうか?」
どうしてこの人は、こんな風に自分に問いかけてくるのだろう――。
セリーヌにはその理由が分からなかった。ただ、目の前の声が胸に響き、その視線が眩しく感じる。
頬がじんわりと熱を帯びていく。
どう答えて良いのか分からず、ただ躊躇いがちに小さく頷いた。
ロガンは、「よし」と短く告げて立ち上がる。
「ディラン、今日の話し合いはこれで終わりだな?」
「はい。後は取り決め通りです」
「では、退くとしよう。……送り届けられなくて済まないが、そのマントはそのまま使ってくれ」
ロガンは短くそう言い残し、「失礼する」と颯爽と部屋を出て行った。
ディランを始め、他の使節の面々も素早くそれに従う。
残されたルメローザの面々は、呆気に取られながらその背を見送った。
バル・グラードの人間がいなくなった部屋で、ラヴィ―ニュ侯爵が低い声でジュリアンに尋ねる。
「――何を考えている?」
ジュリアンは、いつもの何喰わない顔で答える。
「……いえ。簡単に送り出せば、価値のない娘を渡したと勘違いされかねないかと思いまして、一芝居打ちました。些か浅慮でしたでしょうか?」
「勝手なことを――次は無いと思え!」
「まあまあ、侯爵。子息の言う事にも一理ある。丸く収まったのだから、一先ず良しとしようではないか。それより、交易の品に関する件だが……――」
そのまま、今日取り決められたさまざまな事柄の話し合いが始まる。
セリーヌは、そのやり取りをぼんやりと聞き流しながら、ロガンのことを考えていた。
(……嫌われてしまったわけじゃ、ないのかしら……)
ロガン・ドライゼン――彼は、どんな人なのだろう。
去り際に感じた彼の背中の余韻に浸る。
まるで大きな波が打ち付けて、引いていく潮に取り残されたような気分だった。
この部屋で交わされた言葉すべてが、現実とは思えないほど非現実的だった。ただひとつだけ確かなのは、自分の心が今までにないほど穏やかであること。
胸の奥に灯った小さな違和感が、じわじわと熱を帯びて消えない――その理由を、まだセリーヌは知らなかった。
貴重なお時間を使ってお読みいただき、ありがとうございます。
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