3・
婚約式の日は、思っていたよりもずっと早く訪れた。
今日までの約三週間、毎日がとても慌ただしかった。
侯爵邸に来た七歳の頃からこれまでに学んだこと、一つ一つを確認される日々が続いた。それだけでなく、獣人国の歴史や礼儀作法、さらには婚姻において重要とされる閨事についても専門の教師が付けられた。
眠るのが深夜になることも多く、食事一つ気の抜けない日々だった。
他国との婚姻は国の未来を左右する大事であるものの、ルメローザの国民が抱くバルへの偏見は根強く、婚約式は略式的なものに留められることになった。
大聖堂の控室で、セリーヌの心とは別に支度が進められる。
純白の生地は滑らかで光沢があり、高級な仕立てであるものの――胸元や背中の大胆なカットにスリットまで施されたドレスは、花嫁というより、高級娼婦のような装いだ。
この姿で、王や国の重鎮達の前に出ろと言うのか。
セリーヌはそのドレスを着た自分の姿を鏡で見て、思わず胸元を手繰り寄せる。
「あの……これは、あまりにも……」
「奥様のご命令です」
ぴしゃりと跳ねのけられ、言葉を噤む。
そこで扉が開き、一人の青年が入ってきた。
侯爵とよく似た、プラチナブロンドの髪と少し青みを帯びたアイスグレーの瞳。
侯爵と少し違うのは、一見冷たそうに見える細い顎も端正な顔立ちも、甘い微笑みで柔らかく見えるというところ。
「……ジュリアン様」
「やあ――少し、外して貰っていいかな?」
ジュリアン・ラヴィーニュ。セリーヌの二歳年上の兄であり、次期ラヴィーニュ侯爵。容姿端麗で、優れた知性と魔力を兼ね備えた彼は、人々から王国屈指の貴公子として誉めそやされている。彼は、メイドに席を外させると、セリーヌの側までやって来た。
「綺麗じゃないか。気に入らない?」
「……」
「そんな顔しないでくれ。……大丈夫。正式な婚姻を結ぶまでには、何とか僕が手を打とう」
「……いやっ!」
開いた背中に掌を滑らせられ、思わず跳ねのけ距離を取った。
ジュリアンは、両手を挙げて肩を竦める。
「おっと、凶暴だね。何がそんなに気に入らないんだい?」
「私には、理解ができません! 私達は、半分とはいえ血が繋がった兄妹ではありませんか!」
これまでも、彼は隙を見てセリーヌに接触しようとしてきた。
セリーヌの私室へ向かう通路は一つで、そこに入るだけでもかなり人目につく。
その為か大それたことはしなかったが、二人きりになると、こうして執着心の籠った眼差しを向けて来る。
ジュリアンは、縮こまり背を向けるセリーヌの髪を一房持ち上げ、薄笑いを浮かべつつ唇を触れさせた。
「……君は、美しい。君にとっても悪い話じゃないはずだ。僕の妹として、生涯僕の側にいたら良い」
「……『兄と呼ぶな』と言ったのは、あなたじゃない」
ぎりっと奥歯を鳴らし、苦々しく吐き捨てる。
この家に来たばかりの頃は、慈愛溢れる彼の笑顔が本物だと信じたこともあった。けれど、彼は笑顔のまま他の人間と同じようにセリーヌを突き放した。
むしろ、涙を流すセリーヌを見て満足げに微笑んでさえいたのに――そこに純粋な好意があるとは、とても思えない。
セリーヌの言葉に、ジュリアンはクスリと笑った。
「当たり前じゃないか。兄のままじゃ、君に触れられない。でも、世間的には兄と妹のままでいる方が、側にいられる理由になるだろう? それが例え侯爵位を継いだ後でも――僕が妻を迎えた後でも」
そんなことを恥ずかしげもなく告げる彼に、ゾクッと背筋が寒くなる。声を詰まらせていると、ジュリアンが再び手を伸ばす。セリーヌの輪郭をなぞるように頬に掛かった髪を耳に掛け、何かを告げようと口を開きかけたその時、バタンッと扉が開いた。
「――メイドを下げてまで、二人で何をしているのかしら?」
深紅の髪を後ろで一つに纏め、藍色のドレスを纏い優雅に扇を広げる女性と、母親とよく似た色の髪を艶やかに後ろに流す少女が連れ立って部屋の中央にやってくる。
「母上、ご機嫌麗しく――アメリアも。今日も素敵な装いだね」
ジュリアンは何食わぬ顔で二人を出迎える。
セリーヌは、すかさずカーテシーをして頭を下げたが、過去に受けた仕打ちが蘇り、体が無意識に委縮してしまう。
「お兄様も、とっても素敵よ。ねえ、私と一緒に行きましょう? 国王陛下が見えられたの。それになんだか……ここは、空気が悪いわ」
妹のアメリアがジュリアンの腕に自らの腕を絡め、セリーヌを一瞥する。
それでも、まるでセリーヌなど始めからいなかったように、二人は楽し気に話しながら部屋を出た。
その背を見送り、扉が閉まったのを確認すると、一人残った夫人がゆっくりとセリーヌの周りを歩く。
「――……さすが、妾の子。その色香が、獣の国の王にも通じると良いわね?」
言い返しても良いことは無い。セリーヌが黙っていると、夫人は苛立たし気に持っていた扇子をセリーヌの足元に叩きつけた。それが丁度スリットから出ていた脛の部分にあたり、赤い痕をつける。
「――……っ」
痛みに顔を歪めていると、夫人は何事も無かったかのように扉に向かう。
「準備を急ぎなさい。あなたのドレスの趣味に口を出すつもりはないけど、顰蹙を買って捨て置かれないと良いわね。精々、あの人の役に立って頂戴――あなたの母親のようにね」
扉が閉まり、誰もいなくなった部屋でセリーヌは深く息を吐き出した。足元に投げ捨てられた扇子を見つめるが、拾う気力も湧かない。
腰を屈め、赤く腫れた脛をそっと指で触れる。意識してしまうと、ズキズキとした痛みが強まったような気がする。
心はただ疲れ果て、ぼんやりと遠くを見つめていた。腫れている部分に何かを当てようと、ポケットの中に入れたハンカチの存在を思い出す。
「……ミモザ」
セリーヌはハンカチを取り出し、そっと広げた。乾燥したミモザの花が現れ、彼女の瞳にようやく熱が籠った。――悔しいし、悲しい。感情が押し寄せ、ハンカチを胸に堅く抱きしめる。ミモザの花だけが、踏みにじられても消えない自分自身の心を認めてくれているようだった。
◇◇◇
婚約式の流れは、結婚式と大きくは変わらない。
新郎となる予定の人が先に大聖堂の宣誓台の前で待ち、新婦となる人が後から入場する。付き添い人などは特になく、両家の親族が見守る中、新婦が宣誓台の前に進み出て、新郎の横に立った時点で神に誓いを捧げ、宣誓書に署名をする。最後に、二階中央席にいる国王陛下に二人で挨拶をし、正式な婚約の関係が成り立つ。
そして、順当にいけば一年の婚約期間を経て、正式な婚姻が結ばれるという。
セリーヌは促されるまま、ぼんやりと大扉の前に立った。
頭の中では、教え込まれた式次第だけが、繰り返し浮かび上がる。
身体は重く、どうやってここまで来たのかさえ、思い出せない。
それでも、扉がゆっくりと開くと、まるで糸で操られるように体が自然と動き、深々とカーテシーをした。
扉付近の人々がその姿を見て頬を赤らめるが、セリーヌには何も伝わらない。
そして、何かに動揺し、騒めく会場の様子にも気が付かなかった。
けれど、顔を上げた瞬間、セリーヌは目を見開き、息を呑んだ。
彫刻のように整った端正な顔立ちと、月光のごとく煌めく黄金の瞳。
黒を基調とした礼服と重厚なマントを纏うその背は高く、均整がとれており、艶やかな漆黒の髪が鋭さと洗練さを引き立てていた。まるで夜そのものを纏ったような神秘的な佇まいに、セリーヌの胸は激しく高鳴った。
(あれが……バル・グラードの王)
だが次の瞬間、肌が泡立つような殺気が押し寄せた。全身に鳥肌が立つ。セリーヌだけではなく、待機していた騎士たちも思わず身構えているのが目に入った。人々は息を潜め、青ざめた顔で動けずにいる。
バル・グラードの王が、鋭い視線でセリーヌを見つめていた。
(何か……不興を買うようなことを、してしまったかしら?)
このままでいるのが正解なのか、跪くのが正解なのかわからない。
バル・グラードの王を真っすぐに見つめたまま身動きできずにいると、彼が先に動きを見せた。ツカツカと長い脚で扉に近付き、セリーヌの前で立ち止まる。
(――……殺されるっ!)
ギュッと瞳を閉じ、その瞬間を待っていると――ばさりと頭に何かを掛けられた。そっと目を開けると、どうやら王の背に付いていた黒いマントのようだった。
「――……それを被っていろ。見るに堪えん」
低く張りのある声で、苦々しく告げられた。
セリーヌの頬が、カッと赤らみ熱を持つ。
この場に相応しくない娼婦のようなドレスが不興を買ったのだと、ようやく気が付いた。
その後、セリーヌは王のマントをベールのように被ったまま式次第を進めていった。手の震えが止まらず、足元も覚束ない。それでも、マントが視界を遮ってくれるおかげで、少しだけ周囲の視線を忘れられる気がした。
実際に、セリーヌの様子を気に留める者は誰もいなかった。
会場全体の空気は、ただ一人の男――バル・グラードの王によって支配されていたからだ。
「――……そ、それでは、それぞれの御名と、自らを表す言葉をお示しください」
震える声で司祭が問いかける。
その後には、深く威厳に満ちた声が堂々と響き渡った。
「私の名はロガン・ドライゼン。バル・グラードの王だ」
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